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今年から田んぼが5反になりまして、
「むらもさん、しょぼくないですね」なんて
よく言われるようになりました。

しょぼくない、、とは
前から言われてまして
そう言われる意味もわかるんですが。

でも、しょぼい、しょぼくない、
と言うのは、田んぼや畑の規模の話ではないんです。

わかる人は聞いただけでプッと吹き出して
「それいいね〜」なんて言って
真意を汲んでくれたりします。

そういう面白さもあると思っていますが、
他にもいろんな理由がありまして。。

大きいことはいいことだ?

大きい事は良いことだ、
という時代がありました。

たくさん作って、たくさん売って、たくさん儲ける。
それが偉いことであると。

偉くなればなるほど、
ピラミッドの上のほうへ行けて
幸せになるという時代だったのです。
そんな時代はもう終わりました。

でも逆に、
「小さいから良い」時代になったわけでもありません。

大きさなんて、規模なんて、
関係のない時代になった
と言うだけの話です。
小さいのが偉いわけじゃありません。

小さいのもいい、大きいのもいい、と言うだけのことです。
でも僕らはまだ前時代の癖を引きずっていて、
どうしても大きい事をやってる人はすご〜いとか思っちゃうわけです。

小さいことはいいことだ??

前の時代の反動で、
次は小さくやってるのが偉いんだと
思い込んじゃったりして。

「大きい事はいいことだ」から
「小さい事はいいことだ」に変わってたりします。

小さいとか大きいとか、どっちでもいいんです。
好きな方をすればいいんです。
どちらが偉いとか決める必要のない時代が来たんです。
自分の才能に従って、好きにすればいいのです。

どちらも必要なんですから。

大きさに囚われない感じが
前時代から見ると
しょぼく映るってことです。

それをわかった上で
しょぼいとか言ってるのって
ただの皮肉で、
前時代へのちょっとした当てつけ、ですね。

そう言うと、性格悪いかも。。

恥ずかしいお名前

ほかにも理由はいろいろあります。

いろんな情報発信をしている中で、
しょぼい百姓と言うパワーワードを
ある日思いついたわけです。

思いついた時は、
自分でめっちゃ面白いと思って
ダハハハ〜と笑っちゃった気がします。

ただ、その名称を実際に使い始めるまでには
少し時間がかかりました。

こんな恥ずかしい名前、自分を貶めるような名前を、
使っていいんだろうかと。
お米も売れなさそうじゃないですか。

YouTubeのチャンネル名も、
元々はむらも農園の山暮らしとか、
そんな普通の名前だったと思います。

今は「しょぼい百姓になろうチャンネル」です。
ちょっとヤバいチャンネル名でしょう。

わざわざ、しょぼい百姓になりたい人って
あんまりいないですよ。
だから、そんな名前にしたら
チャンネル登録者数も増えないし、
はっきりって微妙なんです。

だけど、ある時期に名前をそう変えました。
その頃、少しチャンネル登録者数も増えてきてて、
コメントがぼちぼちつくようになってたんですね。

プロのコメントめんどくさい

普通の専業農家みたいな、
そんな人からもコメントがつくようになりました。

そんな人と僕がやってることって全然違うことなので、
めちゃくちゃめんどくさいんですね。

考え方の土俵が全然違うので、
話が全く噛み合わないんです。

ほかの動画も見てくれているような人なら
いいのですが、、

それがもう、めんどくさくて、、

それで思い切って
チャンネル名を変えました。

チャンネル名を変えた瞬間に
そういうコメントは一切来なくなりました。
これはめちゃくちゃよかったですね。
とにかく楽です。

なんせ、しょぼい百姓に
質問してくる人なんていません。

「しょぼい百姓になりたい」っていう
少数の変わった人だけが
僕のチャンネルを見てくれればいいのです。

しょぼい総合芸術

まだまだ、しょぼい理由は続きます。

しょぼい百姓とは
僕の名付けた、とある生活スタイルであります。

その生活スタイルのメリットは
自身の才能を発揮しやすくなる、
ということです。

才能とは、、
みんなが思うような
圧倒的な才能のことではありません。

だけど、
全ての人が唯一無二、
オリジナルの才能を持っています。

似た人はいますが
全く同じ人はこの世におりません。

みんながそんな才能を発揮するとき、
この世がどれだけ良くなるか、、
想像できますでしょうか。

それはとんでもなく
面白い世界なのであります。

そして、そのとき一人一人の人生は
完全にオリジナルな芸術作品となっています。

ややこしいことからは離れる

人間には可能性があるのです。

可能性のない人など一人もいないのです。

だけど、、
この世を見渡しても
そんな風に生きている人って
あんまりいないように思いませんか。

それはなぜか、、

お金という呪縛、足かせによって
ピラミッドから離れられないからです。

ピラミッド社会から出て、
生きていけるなんて思えないのです。

この社会は不自由です。
だけど、社会の常識の通りに生きていけば
よっぽどおかしなことにはならない、、のかもしれません。

でもそれは
自身の才能を発揮する可能性に
蓋をすることでもあります。

不自由な社会で
才能を発揮できるのは
ほんの一握りで、
ほとんどの人は
自分にオリジナルの才能があるなんて
忘れてしまいます。

でも、、
自分の才能を発揮して生きることって
どれだけ幸せなことか。。

それは「究極の他者貢献」であり
それ以上の幸せはたぶん、ありません。

そんなことばっかりしてないで

才能というと
とにかくすごいこと、、
と思うかもしれません。

でも、そんな大袈裟なものではありません。

才能を発揮しても、
お金持ちにはならないし、
有名にもならないし、
地位も名誉も手に入りません。

それは自分でも見過ごしちゃうような
「しょぼいこと」かもしれません。
周りから見たらなんだそれ、って話かもしれません。
アナタそんなことばっかりやってないで、、とか言われるかもしれません。

才能とは、そんな「しょぼい」ことなんです。

でも、そんなようなことをできたら
チョー幸せかもしれないのです。

それができる可能性を
少しでも上げるための生活スタイルが、
しょぼい百姓です。

比べることを忘れるとき

誰かの才能と自分の才能を
競う必要はありません。

なぜなら、それはすでに
完全なるオリジナルだからです。

競技が違うのだから
比べようもありません。

だから、今までの社会の尺度は
必要ありません。

それはお金の有無という
シンプルな尺度のことです。

要はお金をたくさん持ってる方が偉い、ってやつ。
そして、お金を稼ぐのに
有利になるような、それに付随するアレコレのことです。

でも、才能とお金って直接関係がないのです。

そして自分の才能を発揮し始めたとき、
他人と比べることの無意味さも
同時にわかってくるんじゃないでしょうか。

自分がこの世を構成する一つのピースであり
そうじゃない人はひとりもいないのであり、
それがどれだけ幸せなことなのか、、を感じるのです。

だから、しょぼい

だから、、

しょぼい、という言葉を
あえて使うのです。

しょぼいとか、しょぼくないとか、
どうでもいいのです。

それがどうでもよくなるとき、
ただの名称になる時がいつか来るのです。

今はまだ、大多数の人にとって
そうではないけども。


↑ むらも農園の本。Kindle Unlimited でも読めます。


↑ noteに掲載されない記事もこちらで読めます。




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