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個の時代は怖くない、かもしれない説

農的生活界隈にはいろんな方がいて、
中には共同体のような村を作る、
あるいはそれを目指す人もいます。

みんなで自給自足しよう、みたいな感じでしょうか。

僕もそういう風に思われることがあるのですが
僕としては自給自足の村にあんまり興味はありません。

生活自体を他の人と運命共同体にする、
そういうことにあんまりメリットを感じないのです。

ま、僕の性格や性分もあるでしょうけども…

それよりも、
生活自体は個々で独立していて、
思想や生活態度が近い人が
自然と集まったり助け合ったりする、
というのがフラットで自然な感じがします。

僕はそんな風に未来を想像しています。


個と自己責任

それは自己責任論のように聞こえるかもしれません。
確かにそういう風に捉えられないこともないのです。

生活は個々で独立して…と言われると、
なんとなく怖いと思う人は
そういう捉え方なのかもしれません。

例えば、
何もない荒野に放り出されて
一人で好きに生きていけ、と言われたら…

そら〜怖いですよ。
お前の自由だ、とか言われて。

いやいや、
それは考えるだけで恐ろしいです。
野垂れ死んじゃいそうです。

だけど、僕の思う景色はちょっと違います。

自己責任を裏返すなら、それは「自由」です。

そして、
放り出される先が
何もない荒野ではなくて
それなりになんでもあるユートピアだったら、
どうでしょうか。

衣食住、なんでも大体あるから
好きに生きていきなさい、と言われたら…

それだったら、どう感じますか。

怖い感じはありますか?

この世は地獄か天国か

この世はどっちなんでしょうか。
何もない荒野か、全てがあるユートピアか。

どちらかであると、断言はできません。

だけど、少し前、
たとえば数十年前までは荒野だった世界が
今は少しずつユートピアに近づいている感じがします。

完全なユートピアだとは
全く言えないにしても、
そういう要素は少なからずあるのです。

たとえば、
空き家が問題になるほど、住むところはたくさんあります。
服なんかその辺にいくらでもあります。
毎日3食のご飯を炊いて、
年間でお米に使う金額を計算してみれば、驚くくらいに安いでしょう。
生活を便利にしてくれる家電も中古屋さんに溢れています。
良い治安も攻撃的でない国民性もあります。

どうでしょうか。

今、日本で生きていくだけなら、
そんなに大したことはないように感じるのです。

もう一つの問題、搾取

それなのに、
働いても働いても楽にならない、
そんな感覚の人も多いでしょうね。

そんな人は、
この世がユートピアだなんて、
生きてくだけなら大したことないなんて、
全く感じられないでしょう。

それは搾取されているから。
もう一つの問題です。

だけど、
その問題をトップダウンで解決することは
まずできません。
今の政治で解決できる問題ではありません。

お給料もモノの値段も
全てが繋がっていて、
だけど僕らにそれはコントロールできないのです。

世の中全体があまりにも搾取状態で、
多くの人はそれにどっぷり浸かっていて、
なかなか気づけません。

その搾取から誰も逃れることはできませんが、
受ける影響を小さくすることはできます。

搾取から少し遠ざかる

搾取の源泉は、
一人一人の中にある、お金への渇望です。

お金が欲しくなるように、
お金がないと僕らは生きていけないんだと
教育され、思い込まされているのです。
それは多くの人が気づかない、
搾取のトリックの根幹です。

だから、考えることです。
考えて、自分で決めることです。

そうすると、お金を使う量は
普通は自然に減っていきます。

自分にとって、「それ」が本当に必要かどうか、
「あらゆること」に対して精査するのです。

お金を使って全てを解決しているうちは
搾取から逃れることはできません。

そして、
少しずつ搾取から遠ざかることができれば
それにつれて、
世の中の見え方も変わってくるかもしれません。

余裕があれば

もしも、
搾取なんてないような世界だったら、
僕らの生活はどうなっているでしょうか。

今、僕らの創造する価値の9割くらいは
吸い上げられているように見えます。

現在、時給が1000円だとしたら、
本当は10000円でもおかしくないかもしれない、
ってことです。

10000円ということはないにしても
3000円や5000円くらいはあっていいのです。

そしたら、毎日8時間なんて
働く必要は全然ないでしょう。

3時間も働けば十分じゃないでしょうか。

いや、それじゃちょっと足りないよ、という人もいるでしょうが、
そのとき僕らは、あれもこれも必要だという洗脳から逃れています。

だから、支出は今よりもだいぶ下がっています。

それは、
今、現時点で想像するよりも
お金のかからない世界なのです。

自然と助け合う世界

週に3〜5日、3時間ずつ働けば
十分に生きていけるでしょう。

かなり余裕のある生活ですね。
空いた時間にそれぞれが好きなことをしているでしょう。

無理に好きなことをしなきゃ…
なんて思う必要もありません。

空いた時間に何をするか、
ということさえも
今はマーケティングによって支配されていて、
あれもせなならん、これもせなならん、
となっていますが、
多くの人はそれに気づいていません。

だから、
今、多くの人にとって
「好きなこと」というのは
自分の好きなことではありません。

あなたがそれを好きでいてくれたら
誰かが儲かるってことです。

そういうことがなくなった時、
「好きなこと」は本当に自分が好きなことになっています。

それが個々の才能、です。
一人一人がちゃんと、違うのです。

ちょっと手伝ってくれない?

世の中には
背の高い人もいれば低い人もいます。
みんなが違います。
同じ人は一人もいません。

高いところにあるものを
誰かにとってもらおうと思ったら
周りにいる人のなかで背の高い人を探すでしょう。

それは誰もが自然としていることです。

みんなが生活に余裕のある状態ならば
あらゆることに対して、
そういうことが自然とできるようになります。

そのとき、みんなが、
自分の才能を
自分の「好きなこと」として
発揮しています。

困ったことがあったら
誰かに連絡して手伝って貰えばいいのです。

きっとお願いすれば、
明日の午前中は仕事してるから
午後から手伝いに行くよ〜
って快諾してくれるでしょう。

自身の才能を発揮することは
楽しいことだから、です。

ただし、背が高いことも一つの才能ですが、
自分の背が高いことを
自分自身で好きかどうかはちょっとわかりません。
もしかすると、コンプレックスかもしれません。

背が高いことを褒められて
嬉しいかどうかもちょっとわかりません。
そういうのは、人それぞれでしょう。

だけど、それが人の役に立てるなら、
それは嬉しいことになるのです。

才能とは、そういうことです。

運命共同体は必要か

搾取が終わることは
まだまだありません。

だけど、その影響から少し逃れることは
今すぐにでも始められる可能性があります。

もしも、その影響から逃れることができたら
少しずつ余裕が出始めます。

余裕のある状態で世の中を眺めると
必要なものって大体もうあるじゃん、
なんてふうに見えてくるかもしれません。

同時に自分の好きなこと
(他人が好きなことではありませんよ)が
しやすくなります。

才能を発揮して
それを誰かの役に立てる可能性が上がってきます。

余裕があるから、
誰かを手伝えるし、
誰かにお願いもできるのです。

さて、そんなふうな人が少しずつ増えていったとき、
生活自体をみんなで共同でする必要はあるでしょうか。

もちろん、それについてどう思うかはそれぞれです。

ぜひ考えてみてください。

「ない」ものを知るとき、ずっと前からここに「ある」ものを意識できる可能性があります。
何かに気づくかも、ってことです。


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