080818

私は良い感じに他人に対して興味がないのだった。どうしても興味がわかないのだった。生身の人間や普段関わっている人間には興味があるけれども、知らない人間がどんなことに喜んだり悲しんだりしているのかはさして興味がないのだった。というより、思春期の頃にSNSを通ってきてないし、テキストベースで不特定多数の人とやり取りするっていうことをしてきていないから、それが原因なのではないかと思っている。だからほんとに興味がないんだよね。SNSねー、あれは時間の無駄だよね。そんなことするくらいなら、やはり文章を繰り返し読んだり書いたりした方がいいよね。もっと自閉的になるべきだ。もっと目の前に事の集中するべきだ。べきべきと音がなる、骨の折れる音が。そのおかげで、私たちは何かを習得することができてしまったのだった。そう思うのが晴れの日。どうでもいいのだ。他人のことなどどうでもいいし、そういうのを搔い潜って、私は要領よく生きているのだ。そういう混迷の中で私は何をするべきなのだろうか。何を描くべきなのだろうか。私はもっと自然体で小説を書けるようになりたい。私は何を書けるようになりたいのか。私は要約不可能な物語を書きたい。自分の物語を生きないというのが大切なのかもしれない。何が大切なのか分らないけれども。SNSを利用してやろうという気持ちが強いです。人も会社も家族も友人も土地も金もすべてより良く活用しながら生きていきたい。そう思うことが大切なのかもしれない。何度も書いて、何度も読むこと。それも利用なのかもしれない。この、今年の夏季休暇でおこなったことを振り返ってみようか。それはまずはとある小説を四回ほど繰り返し通読した。その小説が持つ文章の仄明るさが心地よかった。切実なパートもあり、心が動いた。そういう小説を私も書きたいと思った。何度も中編を読むことの大切さについて考えた。……小説を書き始めた。というより小説の素になるようなものだ。私はさっさと仕事を辞めたい。小説をとにかく書き始めたのだ。それは祝福すべきことだ。もう何度も書いて書き直して完成させた文章。何があなたを成長させるのか、何があなたを変革するのか。明日からも別にどうせ日々は続くのだ。むしろ明日からが休みみたいなものなのだ。明日から何が変わるのだろう。明日からも同じだからだ。緊張の瞬間しかないのだ。何度も何度も繰り返して私は何が出来るのだろうか。それができたから私には光があるのだ。私はそれができたかもしれない。それこそ大学入試のときはそうだったではないか。私は何もかもを利用して生きてきたじゃん。それと同じことをしている、ただそれだけなのだ。何かを主導した経験とは何なのか。サラリーマンに何を求めているのだろうか。他人に本当に興味がない。社会のことにも興味がない。どうでもいい。私は大きく欠伸する。目の縁にじんわりと涙が出る。目の縁が涙によって濡れる。そういう基本の部分を何度も繰り返すことで私は前に進んできただろう。人生の数奇さについて考える。思案する。もうはまっちゃって、どうしようもないという感じなんですよね。自分のことに集中したらすべてのことが上手く回り始めた。そうやって私も何かを積み重ねていきたい。思えば、3年前に始めたこのnoteも、何かを毎日積み重ねたいと思って始めたものだった。その起源について考えている。差別はどこにでもある。子供のいる人間にだって差別的な発言はあるのだ。言っていて気持ちがよくなる発言は、差別的である可能性が高い。自分のドーパミンを出すためだけに日々を生きている、本当に楽しいのだろうか。もともと他人に興味がないから楽しく生きていけるのかもしれない。ぽこぽこに酔っている。私はもっと家にいる時には閉じこもらねばならない。もっと自閉的にならないといけない。やるべきことに集中して、進めていかないといけない。そう、おそらくそうなのだ。ちょっとずつ記憶を戻して生きていきたい。明日から。明日からが休みの本番なのだと自分に言い聞かせて。

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