社会への恨みと物乞い

ここ何日か、川崎の痛ましい事件関連のニュースをみていた。

その数日間にもアメリカのヴァージニア州では12人の人間が無差別に銃で殺されたニュースが流れてきて、自分の周りの環境が普段どれだけ平和であるかということも感じざるを得ない。

ところで、「死ぬなら一人で死んでくれ」という言葉がどれだけ多くの人が言った、又は共感しているのかはよくわからないけど私は、第三者や、報道機関が伝えるというか見るべき方向は、加害者の徹底的な調査と、それを生み出さざるを得なかった社会に疑問を向けて何か改善するところを探っていく事しかないと思う。

社会側が完璧な、完全なる正当と定義するなら、それにそぐわない人間はただの役立たずで、死んだって構わないと言う事をいとも簡単に人は信じてしまう。

似たようなことは最近の歴史ですでに起きている。

こういうことを言うと「社会で役に立たない人たちに支援」するなんてまっぴらだ。とかある一定の想像力しか出来ない人がいそうだけど、そういう事が言いたいのではない。

多くの報道機関は、犯罪で処罰されるべき事と、加害者、被害者への感情とかなりごっちゃにして伝えている感じがある。

話は変わるのだけど、日本は貧困層が増えていると聞くけど、都会の駅で物乞いの人たちを見ることはほぼ、ない。

外国に足を運んだ人ならわかるかもしれないけど、多くの他の国はそうではない。

家をなくした人たちは、大体人の目から離れた場所にいる。
大阪はちょっと違うかもしれない。

今回の件と直接結びつける気はないのだけど、物乞いできる状況にあると言うのは、不謹慎かもしれないけど、社会のシステム的には健康的なことだと思う。

私だっていつそう言う状況になるかわからない。

でもそれができないと仮定すると、やはり私たちのマインドの中に強い恥への拒否がセットされているからではないだろうか?

ひどい現状を維持してまで感じたくない恥。

(単に道路交通法などで違法になってしまうと言うこともありうる、又食べ物は意外に手に入れる事ができるからする必要がないと言うこともある)

私見なのだけど、物乞い、又は別の形でそのような施しができると、大抵人は世間を恨んだりしない。

私は物乞いではないけど、別の形で施されたことは、実は、沢山ある。

(定義を曖昧にするならほとんどの人は施されて生きていると思うが)

施す側の人間も感謝されて何か自分にできることがあると感じるし、施される側ももちろん感謝するからである。

何か日本には自分の存在価値まで影響する、(表現がありきたりすぎて申し訳ないのだけど)感謝の流れのようなものが、現代の文化的なものによって滞っている気がする。

話を元に戻したい。

このような事件は起こらないでほしい。

その上で、他の記事でも見かけたけど、第三者だからこそ観れる視点があるのに、報道機関がそれを突破して、共感のみに正当性を置いてしまうような風潮が日本はあまりにも強いと感じている。

その感情が、現代の日本では、あまりにも正当に通ってしまう。それが怖い。

#事件

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