1980年月刊『宝島』編集者 4/  入社したけど『宝島』は混迷の中にあり /雑誌『POPEYE』『ホットドッグプレス』

入社したとき、月刊『宝島』は、売れていなかったし、方向感を失っていた。

前にも書いたように刷りが2万部弱。定価480円。4割が返品。

取次と本屋の利益があるので、出版社の取り分が7割として。

で計算すると、480円×2万×0.6×0.7=400万あまり。

これはやや甘めの計算で。

ここに印刷費が250万かかっていたとすると、残り150万。

編集者3人いて、デザイナーが1人いて、経理や営業の人がいて、家賃や各種経費払ったりしてたら赤字に違いない。

しかし、蓮見社長は「赤字でもメディアは持ち続ける」と明言していた。

本業はあくまで自治体の印刷物を受注する本社であったが、メディアを核として展開するいろいろなビジネスのヴィジョンがあったのだろう。

そんな中で、『宝島』は方向性を模索していた。

模索していたというとかっこいいが、つまり右往左往していた。

じつは私は、『宝島』はまともに読んだことがなかった。480円は当時の私には軽い気持ちで買うには高かった。少しは読んでいたとしても、じつに散漫、バラバラな印象しかもっていなかった。

見出しをパラパラめくっているとかっこいいのだが、読んでみるとあまり内容がないような。

ただ、なんか独特の雰囲気があって、何か新しいことがありそうな気分にさせた。そういうなんとない好感をこの頃の『宝島』に持ってくれている人は多い。

石井慎二さんがいつから編集長になったのか、そういえば、一度も聞いていない。たぶん、数ヶ月くらいではなかったのかと思う。まだ舵は握ったもののどこに行けばいいのかわからなかったのではないか。

しかし、当時の私には今こうして書いているような俯瞰的にみる視点などない。石井さんは業界で生き抜いてきた大編集長であり巨大な存在であった。関川誠さんも編集者がすっかり板についた感じで、年齢はたぶん1つ違いくらいだが、すっかり大人びて見えた。

転職がふいになりそうになったこともあり、当面「お前は編集者失格!」と言われないように、緊張していた。そういう半人前から一人前の間くらいの視点からいろいろなことを覚え見習うしかなかったのである。

最初の編集会議の頃に、私がまだ関わっていない最新号が上がってきた。

特集は『がんばれ! 女の子雑誌』。

「へー、面白そう!」と当時の私は思った。

しかし、今考えると、なぜ女の子雑誌なのか、なんで今なのかとか、そういうとっかかりが何もない。

蓮見社長はあるとき「近頃、『なぜか今、××が気になる!』なんて雑誌の特集タイトルがあるけれども、それは全然必然性がないことをやってんだよな。気になるって、誰が気になるんだ? 編集部以外、誰も気にしていない」と言ったことがある。

そういう意味では、女の子雑誌という特集、まったく時代とのとっかかり、必然性がなかった。

次の特集は、関川さんの提案で『僕らの快楽研究』という特集になったと思う。快楽といっても、『宝島』にはエロ系の要素は皆無だったので、覚えている内容ではチョコレート・ジャンキーとか。必然性なし。

「僕ら」という括り方に当時の『宝島』のよさも悪さもあったような気がする。同時代に生きていたからといって、「僕ら」と呼びかけるに値するような共有性があったのか。

いや、共有性は今よりはずっとあったのだ。つまり今日のオタク文化のように、タコツボ的に枝分かれし専門分化した時代ではない。

若者のニーズに対応する商業的なものは、今日よりずっと少なかった。みんな何か面白いことを探していた。そういうものがありそうな予感は今よりずっとしていた。毎日わくわくしながらも、刺激は不十分で少し欲求不満であった。

1976年に創刊されたマガジンハウスの『POPEYE』は、おしゃれなファッションやグッズという形で、このニーズを満たした。初期の試行的な発行からこの頃には月刊化し、隆盛を極めようとしていた。

『POPEYE』は、Magazine for City Boysがサブタイトルであったようだが(by wiki)、シティボーイという言葉もひょっとしたら『宝島』が先かもしれない。

『POPEYE』が売れていた証拠に、よく似た雑誌、講談社『ホットドッグプレス』が後追いで1979年に出ている。二匹目の泥鰌である。

同じAB版で、細かい縦割りのレイアウトのコラムでグッズや最新情報を載せる感じも同じ。私の記憶では、『ホットドッグプレス』のほうが泥臭いが、後発だけによく人気を分析してベタにニーズに応えた。

洒落っ気よりベタが勝った。やがて売り上げで抜いた。

その後、ファッション、グッズ熱がひと段落すると、『ホットドッグプレス』は、デート・マニュアル、いかにして女の子をモノにするか的な特集に売り物をシフトしておおいにウケた。

(これは記憶で書いているので書誌学的には、細かいまちがいがあるかもしれないが大筋はこういうことだ)。

『宝島』は、アメリカ文化を紹介することにかけて早かったが、『POPEYE』や『ホットドッグプレス』には追従しようもなかった。

出版にうとい人にもわかるように説明すると、とにかく大人と子どもほど力の差がある。

先方は大出版社である。

資金は潤沢にあり、編集人員もいる。

広告も打てるし、基本部数も多い。

ファッション、グッズの広告も大手代理店を通してとれる。

かたや、『宝島』は、カラーページがほとんどないので(印刷費が嵩む)、グッズもファッションも紹介しようがない。

まあ、対抗も何もないわけです。

そういう時代背景の中にあって、『宝島』は苦戦中であった。

売り上げ的には、上記の2号は惨敗であった。

その次の特集がなんと『マルクス』! これは石井さん主導である。

この号は手堅かった。他の2号よりはかっちりした内容がある。

石井さんは、たぶん別冊『宝島』、臨時増刊などの編集長も兼任していたはずである。『マルクス』は別冊でやってもいいようなテーマであった。

そのあと、津村喬のレクチャーによる『世界の読み方』のような特集もやった。そういう知的な路線が石井さんの本来であったように思える。

しかし、その路線が本質的な解決策でもなかった。




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