「it(インフルエンザかもしれない)」とニーチェの「病者の光学」/身体が受け入れるもの /身体の物語

「it」が来てから、私は病人たる生活を余儀なくされた。

というのも、ちょっとしたメール、SNSのやりとりをするのが辛くなった。

スマホの画面を見るのが辛いのだ。ふだんは何でもないバックライトが眩しく感じる。

これは身体のエネルギー水位が激しく下がっているということです。

人の身体というものは、いろいろなものを入れたり出したりしている。

呼吸をしている。気体を入れたり出したりしている。

食べて消化している。排泄している。

人の言葉を受け入れて、自分も言葉を出す。

感覚的印象、光や音、匂いなどをインプットして、さまざまな反応をする。

こういうことで人はエネルギーを得ると同時に消耗している。

よく病気の人に「栄養をつけなきゃ」といってあれこれ食べさせようとする人がいる。

しかし、消化は病人にはハードワークであります。

断食をきちんとやれば身体によいのは、内臓がこの消化という苦役から解放されるからです。内臓というのは、胃腸の他に肝臓、腎臓。他にも膵臓やら胆嚢やらあるかもしれませんが、肝腎というくらいでこの2つくらいイメージしておけばいいでしょう。

病気のときは身体がほしがるものを少量摂るだけでいいのです。

これを私は「病気ダイエット」と呼びます。

「病気ダイエット」は、人間本能に基づく最も自然なダイエットと言えます。なにしろ、食欲がなくなるのですから。

これに対して人間の意志で思いつきでするダイエットは不自然なダイエットと言っていいです。したがってリバウンドしやすい。

要するに身体が食べたくないと言っているときに食べないのがいちばんよいです。人の身体に物質やら情報が入ると、身体はその応対をしないといけない。エネルギーの水位が下がったときには、「お・も・て・な・し」などしている場合ではない。なるべく体内に何もインプットしないほうがいい。

なぜエネルギーの水位が下がるかというと、治癒力、免疫力にエネルギーを使っているからです。身体の中の異物と身体が戦って消耗戦をしているわけです。

ですから、最大のシャットダウンは眠ることです。部屋を暗くして眠る。

電灯を点けたまま眠る人がいるようですが、これは休まらないです。とくに病気のときは暗くしましょう。

話を元に戻しますと、「it」の侵入以来、私はスマホのバックライトすらつらい水位までエネルギーが落ちていたのです。

こういうときは、出歩いたりする外的な活動も基本的によくありません。

人が使うエネルギーは基本的には1つなのです。

とくに病気のときは、あちらで使えばこちらで足りなくなります。

元気なときは、たとえば、1時間近い海外ドラマの動画を続けて何本も見たりします。それから「it」が来る直前には、落下型パズルゲームにはまっていたのです。目がチカチカするようなゲームを1日下手すると1時間も2時間もしていた。

これはエネルギーの水位が下がった状態からみると、目も眩むような激しい蕩尽であります。そんなことは不可能。谷底からエベレストを見上げるような気持ちになります。

決局最初の数日は寝ているしかなかったのです。文庫本、紙の本を読むことだけ自分に少し許したのです。読みかけのミステリがあったのです。定評のあるシリーズですが、たまたま大駄作……。読み終わって落胆しました。

ニーチェの『病者の光学』という言葉をご存知でしょうか。

あるいはパースペクティブ、病人の遠近法ということです。

衰弱したエネルギーから見上げると、人生はまったく違うように見えます。

すさまじいエネルギーを使うゲームとはいったいどういう娯楽なのだろうとか。

いつも何かしら忙しく生きているけれども、本当にする必要があることはどれほどのことだろうとか。

自分がいなければ職場は回らないと思っていたのに、倒れたら倒れたで簡単にあとが埋まってしまったり。

元気になったらしたいことが意外なことだったり。

食欲がないときは、どんな美食もつまらないものに見えたり。

そんなふうに、何か違うふうに見ようと努力しなくても、自然に違って見えてしまいます。

私たちは自分の人生をいつもかなり固定的に眺めています。

その視野の狭さで行動のパターンが決まり、損をしているのではないかと思って、視野を広げるために本を読んだりします。

しかし、病気のときの視野には、そういうことをはるかに超えた本質があります。

私たちは2つの眼で物を見ています。そのわずかな視差によって、立体視をするように脳内ソフトが組まれています。

病気はこのような視差が生まれるチャンスなのです。

『ゴーマニズム宣言』の小林よしのりは、ぜんそくで遊びたい盛りを何年も寝て過ごしたといいます。

それは本当に辛い経験でしょうが、それがなければあそこまで突き抜けた独特のマンガを描くこともなかったかもしれません。

調べるとチェ・ゲバラも幼少期からぜんそくだったようです(それで葉巻吸っているんだから仕方ないですね)。

いちいちあげませんが、こういう例はいくつもあります。

病気は、思索、哲学、自己探求のチャンスなのです。

真剣な思索は暇人の特権である、と最初に書きました。

病人は暇人なのです。

病気になっても気持ちが忙しく、一刻も早く社会復帰したいということだけを考えてるいる人は余裕がなくて、そして大切な機会を逃してかわいそうです。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候
              是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」

と弟子への手紙に書いたのは、良寛禅師です。

ジタバタするのはもったいなし、結果もよくないものです。

ここまで書くと、ニーチェが『病者の光学』について書いていることがかなりわかるはず。

*以下、引用

これだけ言えば、いまさら、私がデカダンスの諸問題にかけては玄人(く ろうと)だということを言い足す必要もなかろうかと思われるが、どんなものだろうか? デカダンスという語を、私は頭の方からもしっぽの方からも、一字一 句丹念にたどった。なんでも手でわってみて弁別するあの金銀線細工の技術にしても、ニュアンスを感得するあの指にしても、「見えていない所を見抜く」あの 心理学にしても、その他私の特技とするところはすべてあの時期に初めて習得したものなのだ。これは、私の観察そのものも観察の器官も、要するに私における すべてが精妙になったあの時期においてでなければ到底得られないようもない賜物である。病人の光学(Kranken-Optik)からして、自分のよりは もっと健康な概念と価値を見渡し、今度は逆に、豊かな生の充実と自信とからデカダンス本能のひそかな営みを見下ろすこと——この修業に私は一番長く年季を かけたし、私に何か本当の意味の経験があったと言えるとすれば、このことこそまさにそれであり、何かの道で私が達人になったと言えるとすれば、まさにこの 道においてだ。今では私はこの技術をすっかりものにしている。物の見方(Perspektiven)を換えるということはお手のものだ。おそらく私にだけ 「価値の価値転換」などということが可能なのはそもそもなぜなのか、その第一の理由はここにある(川原栄鋒訳 1994:23-24)。

ニーチェ『この人をみよ/自伝集』(ニーチェ全集15)筑摩書房、 1994年

ニーチェのいうデカダンスとは、私のいう「生のエネルギーの水位がたいへん低い状態」と、そこから生まれる症状、兆候などを指します。

いわゆる衰弱です。ニーチェは自分のある時期を「影のように生きた」と言っています。

生の充溢⇄衰弱の両極から自分はものごとが見える、その2つを自由に転換できるとニーチェは言っています。

私は今回、衰弱したときに自分が何ごとを思索したか。思索というほど立派なものでなくとも、どんな言葉が頭の中を流れていたのかを記述しようとしています。

それが身体を内側から書くということです。

私にとってはそれはいつものことで、さほど珍しいものではなく、他の人にとって珍しいか興味をひくかもわかりません。しかし、まだ続きます。






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