●全貌はわからない


選挙の情勢はその筋にくわしい人(複数)によると、与党が有利らしい。
がっかりであるが、そう言われればそういう気もする。
与党の内実は利権と惰性で動いていて、国民がとてもこの時代を生き抜けないボロクソだと思うが、大衆の感情は違う。
政府のコロナ対策を評価する人が増えているらしい。
どこに評価するところがあるのか、僕はわからないが、結果的に今は少ないのが大きいのだろう。
コロナの感染者は波なのか、数字の操作なのか、ワクチンの効果なのか、激減しているらしい。

感染者数の発表はあるが、相変わらず検査数とのセットにはなっていない。

あらゆるテレビが検査数を言っていないのだろう。
ひょっとしたらあらゆる新聞もそうなのだろう。
(僕はテレビも新聞も見ないので、違っていたら指摘してください)。

僕がデスクならまずそのことを整える。
母数はもちろん、どこでしたどういう種類の検査なのか、ということも新聞なら小さな文字で付記するだろう。
どこの新聞もしないというのは、マスコミのどうしようもない鈍化、劣化なのか。
単なる横並び意識?
何かの通達、あるいは暗黙の合意があるのか。
マスコミ関係の人に会ったら聞いてみたいが、あまり会う機会はなさそうだ。

ワクチンの副反応についても、たいへん多くを見聞する。
ここで議論はしないが、あまりいいものではないと思う。

しかし、ワクチンが正義だという世論にどこかから予算が出ている。

この文で書きたいのは、「情報は操作されている」ということではない。
いや、確かにめちゃくちゃ操作されている。
けっこうな政府予算が使われているフシがあるが。
それでも、「情報は操作されている」という情報もまた信じられるものとそうではないものがある。

僕は僕なりに、「これは信じられる。これは行き過ぎだ」と分別しているが、これは個人的なものであって、誰かの同意が得られるわけではない。
ということは、世の中をどう見ようが、まったく無力な個人の心の中のモヤモヤにすぎない。
人によっては、モヤモヤではなく、自分の見方に信念があるだろう。

信念であろうが、モヤモヤであろうが、無力で孤立しているのは同じだ。

つまり、僕の言いたいのは、「もはや我々は国や社会で起きている全貌を知ることができないのではないか」ということだ。

あるいは一部の特権的な人々は全貌と言わないまでもそれに近いものを知っているかもしれない。
部分的にしか知らない人が知ったような気になって多くを語っているかもしれない。

情報が多くなって玉石混交となり、また意図的に操作され、根幹の情報より皮層的な感覚を刺激する情報が支配的になり、情報を消化処理する機能そのものも皮層化してしまった。
情報とそれをめぐる器官すべてが無能化してしまったのである。

昔からそうだったのか、あるときからそうなったのか。
だったらどうしたらいいのか。
などなど付随的な疑問がでてくるのであるが、それはまたゆっくり考えることにする。

たぶんネットを見ない、というのがいちばん単純で健康的な対処なのだろう。

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