1980年月刊『宝島』編集者 1/ そろそろ書いても「時効」かな?

1980年を挟んで、約3年間月刊『宝島』の編集者であった。

40年前である。

ここのところ、たまたま2人の人に続けて、その頃のことを書いてほしいと言われた。

その他でも、『宝島』という名前が出ると、目を輝かせる人がときどきいる。

かなりマニアックな人も中にはいるが、別冊『宝島』と見分けがついていない人が多い。外からみれば、月刊だろうが、別冊だろうが、さほどの違いはないのだろう。

しかし、内部で仕事をしていた人間としては、同じ出版社で出していたとはいえ、混同されると話題をつなぎにくい。

ときどき私が『宝島』の編集長であったと紹介されることがある。

慌てて「編集者」であったと訂正するのであるが、話し手にとってはそこは些細なことのようである。

しかし、私自身は編集者であった過去を編集長と誇大に語っていると思われたら心外である。訂正せざるを得ない。

『宝島』は私にとって微妙なテーマである。

24歳から27歳まで在籍したことで、50になっても60になっても「元『宝島』の編集者」と紹介されるのは、正直あまり面白くない。

友人に「もうそれはやめてくれ」と言ったことがある。

過去に生きていると思われたくないのである。

今ここに生きている私を見てくれ、と言いたい。しかし、そうなるとわかりやすい紹介がないのである。いろいろなことはしているが、誰にでも通じるポピュラーなものはない。

「元『宝島』編集者」、これより簡潔でわかりやすい紹介はない。

やめて、といった友人には悪いことをした。

ただその紹介で興味を持った人物が近寄ってきて、半端に『別冊・宝島』の話をされても、私の心も話も弾まないのである。

どうせ話すなら、もっと深い話をじっくりとしたい。

2人の人に続けて「書いて」と言われたのは、神様の与えてくれた契機かもしれない。そう思って、その頃のことを書くことにした。

携帯電話はおろか、ワープロもファックスもない時代の編集者の話である。

サブカルチャーや雑誌文化にマニアックでない人も少しばかりの面白さは汲み取ってもらえると思う。

そして、なにしろ40年経っている。

相当ヤバい立ち入った話も書いても、生臭い反応は少なかろうと思う。

もし当時の関係者が読めば、「お前の記憶は違う!」いう話も出てくるだろう。

記憶は、つねに無意識の中で変形していくものだ。

ここに記述されるのは、私の記憶である。

公正を期するつもりであるが、無意識の変形についてはわからない。

人が違えば見えたものも違うだろう。

私が最初に関わったのは、1979年3月号からである。

それから3年弱、編集部で仕事をした。

最後に関わった号がどれか、雑誌を手にとってみないとわからない。

しかし、バックナンバーは、今はもう手元にないのである。





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