マルコの福音書の独自の目的:僕(しもべ)であるメシアの福音書

4つの福音書の中で、マルコの福音書は初代教会で最も軽視されていました。実際、6世紀になるまで、この福音書に関する注解書は一冊も書かれませんでした。これにはさまざまな要因が考えられます。マルコの福音書は4つの福音書の中で最も短く、その物語の90%はマタイかルカのどちらかに含まれています。初代教父アウグスティヌスは、マルコはマタイとルカの単なる省略だと考えました。また、マルコの福音書は他の福音書と比べて、やや荒っぽく、文学的でないとされています。例えば、ルカほどエレガントでもなく、マタイほどテーマ別に構成されているわけでもありません。また、マルコには、マタイやルカが平滑化する傾向にあるイエスの難解な発言や行動である「問題箇所」が多く含まれています。
しかし、このような歴史的軽視は近年逆転し、今日ではマルコの福音書は福音書の中で最も熱心に研究されています。学者の大多数は、マルコが最初に書かれた福音書であり、マタイとルカの一次資料であると考えています。マルコは力強くエネルギッシュな文体で、ドラマ、謎、色彩に満ちています。他の福音書と同様に、マルコはイエスのユニークな肖像を提供し、イエスが誰であったか、何を成し遂げるために来られたかを特別に洞察しています。
マルコ福音書の構成は、著者の目的を知る鍵となります。福音書の前半は、イエスが力あるメシアであり、神の子であるというアイデンティティに関するものです(マルコ1:1-8:30)。後半はイエスの使命に関するものです(マルコ8:31-16:8)。衝撃的なことに、メシアはローマ軍団を征服するためではなく、罪の贖いのいけにえとして苦しみ、死ぬために来られたのです。マルコは、イエスの十字架刑がメシアであるという主張を否定するものではなく、むしろそれを肯定するものであることを示すために書いています。イエスがこの使命に忠実であったことは、すべての弟子の模範となります。イエスに従うとは、自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスに従うことです(マルコ8:34)。

イエスのアイデンティティー:力あるメシアと神の子(マルコ1:1-8:30)

福音書の最初の行は、イエスを「メシア、神の子」と紹介し、それに続く物語は明らかにこのアイデンティティを確認することを意図しています。マタイやルカとは異なり、マルコはイエスの誕生や幼少期については何も語りません。ヨハネとは異なり、イエスの前世や「受肉」(人間として地上に現れること)についても何も語りません。その代わり、マルコはイエスの公の働きに突入します。メシアの先駆者としての洗礼者ヨハネの役割、ヨハネによるイエスの洗礼、サタンによるイエスの荒野での誘惑(マルコ1:1-13)などが含まれます。私たちが一息つく間もなく、イエスは神の国を告げ、弟子たちを呼び寄せ、説教、癒し、悪霊を追い出す宣教活動を始めます。マルコは、「すぐに」と訳されることの多いギリシャ語のエウトゥスという言葉を好んで使い、41回も登場します。この言葉は必ずしも「その時」という意味ではありませんが、物語をスピードと緊急性をもって前進させる役割を果たしています。これはまさにステロイドの福音書です!
マルコ福音書の前半を通してのキーワードは、「権威」です。イエスのなさることはすべて権威をもってなされます。イエスの神の国の告知(マルコ1:15)は、それ自体が並外れた権威の主張です。神の「王国」とは、創造主であり王である神の万物に対する主権的権威を指しています。彼は宇宙の主なのです。しかし、アダムとエバの「堕落」以来、被造物は反逆、堕落、腐敗の状態にあります。神の国とは、万物の再生の略語です。イエスは、被造物そのものを回復するために来られたという驚くべき主張をされています。
イエスが公のミニストリーを始めると、権威の主張は続きます。イエスは4人の漁師を弟子として召し、彼らはすべてを捨ててイエスに従いました(マルコ1:16-20)。イエスの権威ある命令は、彼らに家族、家庭、職業を捨てさせます。そしてイエスはカファルナウムの会堂に入り、教え始めます。律法の教師たちとは違って、権威をもって教えておられるので、人々は驚きます(マルコ1:22)。会堂に突然、悪霊にとりつかれた男が現れました。悪魔はイエスの権威に恐れおののきます。「私たちを滅ぼしに来たのですか?私は、あなたが神の聖なる方であることを知っています」(マルコ1:24)。
イエスが悪霊に出会うたびに、彼らはイエスの正体を見抜き、恐れおののきます(マルコ1:24, 1:34, 3:11-12, 5:7)。彼は力強いメシアであり、神の子なのです!
イエスのガリラヤでのミニストリーを通して、権威ある行為は続きます。足の不自由な人を癒すことによって、イエスは「人の子は地上で罪を赦す権威を持っている」ことを確認されます(マルコ2:10)。安息日の主として、旧約聖書の律法に対する権威を行使されます(マルコ2:27)。イスラエルの回復された部族を代表する十二使徒を任命することによって(マルコ3:13-19)、イエスはイスラエルを最初に存在させた神ご自身の権威をもって行動されます。イエスは自然の力を制御し、「静まれ!静まれ!」と命じます。恐怖におののく弟子たちは、「これは誰だ?風も波も彼に従う」と言います(マルコ4:39,41)。この「これは誰か」という問いは、福音書のこの半分のテーマをうまく要約しています。この問いは、マルコ8:30のペテロの告白によって答えられます。さらに大きな奇跡が続きます。イエスは一人ではなく「大群」の悪霊を追い出し(マルコ5:1-20)、誰も助けられなかった慢性病を癒し(マルコ5:25-34)、少女を死からよみがえらせます(マルコ5:35-43)。彼は水の上を歩くが(マルコ6:45-56)、これは神の行為です。「神だけが海の波を踏む」(ヨブ9:8)。
マルコの福音書は、ペテロの告白で最初のクライマックスと中心点に達します。イエスは弟子たちをガリラヤの北、カイサリア・ピリピに連れて行き、群衆から離れて時を過ごさせます。その道すがら、イエスは弟子たちに尋ねます。弟子たちの答えはさまざまで、「ある人はバプテスマのヨハネと言い、ある人はエリヤと言い、またある人は預言者の一人と言います。イエスは彼らに向かって言われました、「あなたがたはどうなのか。あなたがたはどうなのか」。ペテロは他の人たちのために答えました、「あなたはメシアです」。イエスの権威ある言葉と行動は、ペテロにイエスが本当にメシア、イスラエルの救い主であることを確信させました。
しかし衝撃的な展開として、イエスはメシアの役割を苦難と死であると定義します(マルコ8:31)。ペテロはこの敗北主義的な態度にショックを受け、イエスを叱責します。イエスは逆に彼を叱責します、「サタンよ、わたしの後ろに下がれ。サタンよ、わたしのうしろに行け!...あなたがたは神のことを思っているのではなく、単に人間のことを思っているのだ」(マルコ8:33)。ペテロは、イエスが力強いメシアであり神の子であることは正しいが、メシアの苦難に満ちた役割を理解することはできません。しかし、イエスの苦しみと死がなければ、人類の救いは達成されないのです。これがサタンの目的であり、神の救いの計画を阻止することなのです。

イエスの使命 主の苦難のしもべ (8:31-16:8)

マルコ福音書の重要な転換点です。このエピソード以降、十字架が焦点となります。次の3章で、イエスはご自分の苦しみと死を3回予言されます(マルコ8:31, 9:31, 10:34)。これらの予言は、マルコ10:45でのイエスの教えでクライマックスを迎え、そこでイエスは自分の死の理由を定義します、「人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのです」。イエスの死は、罪を償い、人間を神との正しい関係に回復させるための贖いのいけにえになるのです。
イエスはゼカリヤ9:9の成就として、ロバに乗ってエルサレムに入城されます。この「凱旋」は、イエスがメシアであることを初めて公にしたものであるのです。これに先立ち、イエスはメシアであることを意図的に隠してきました。学者たちはマルコ福音書のこの珍しい特徴をメシアの秘密と呼んでいます。
イエスは、悪霊が自分を特定しようとするのを黙らせ(マルコ1:25、1:34、3:11-12、5:7)、いやされた者には、そのことを誰にも話さないように命じ(マルコ1:44、5:43、7:36、8:26)、弟子たちには、自分がメシアであることを公表しないように警告しています(マルコ8:30、9:9)。なぜ秘密なのか?マルコによる福音書8:31のイエスの宣言で、その理由が明らかになります。ユダヤ人の間では、ローマ軍を打ち破り、神の王国を地上に樹立する戦士メシアに期待が集まっていました。民衆の気持ちは、イエスを自分たちの条件で王にしたいというものでしょう。それに対してイエスは、メシアの真の(苦難に満ちた)役割を定義するために、メシア的な期待に水を差します。イエスはローマ軍団よりもはるかに偉大な敵を征服するためにここにおられるのです。人類の最大の敵であるサタン、罪、死を滅ぼすためにここにおられるのです。
メシアとしてのイエスのエルサレム入城には、いくつかの挑発的な行為が続きます。イエスは神殿から両替商を一掃し(マルコ11:1-11)、宗教指導者たちと多くの論争を繰り広げ(マルコ11:27-33、12:13-37)、宗教指導者たちを神のぶどう園(イスラエル)を不始末にする邪悪な小作人として譬えます(マルコ12:1-12)。これらの行為はすべて、イスラエルの指導者たちの権威に挑戦するものであり、彼らを挑発するものです。彼らの反応はイエスの殺害を企てることになります(マルコ11:18、12:12、14:1)。
イエスの逮捕、裁判、十字架刑は、マルコの福音書では暗く不穏な場面です。イエスが逮捕された時、イエスの仲間であったユダがイエスを裏切ります。弟子たちはみなイエスを見捨てました。イエスが裁判を受けている間、中庭の外では、絶対的な忠誠を主張した弟子たちのリーダーであるペテロが(マルコ14:29、14:31)、三度もイエスを否定します。ローマ総督ポンテオ・ピラトは、正義の茶番劇の中で、イエスの十字架刑を認めます。イエスは暗闇の中で十字架にかけられ、自分の国からは拒絶され、傍観者からはあざけられ、最も親しい従者たちからは見捨てられます。詩篇22:1の言葉をイエスが叫ぶように、神でさえもイエスを見捨てたように見えるのです:「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)。
しかし、信仰の目を持つ者にとっては、これは悲劇ではありません。イエスがずっと教えてきたように、イエスの死は、世の罪のための贖いのいけにえを与えるという神の主権的な目的と計画の一部なのです(マルコ10:45)。勝利は、犠牲、苦しみ、死、そして復活によってもたらされるのです。

マルコの異例の結末

イエスの死と埋葬から3日目、マルコは女たちがイエスの遺体に油を塗るために墓に来た様子を描写しています。彼女たちは、石が転がされ、墓が空であることにショックを受けます。天使がイエスは死からよみがえったと告げました!しかし、女たちは当惑し、恐れと沈黙のうちに墓を後にしました(マルコ16:1-8)。
驚くべきことに、私たちの最も古い写本では、マルコの福音書はここで終わっています。復活の様子は記されていません。後世の写本家たちは、明らかにこの終わり方を気に病み、一連の復活の出現を要約した、より長い終わり方を付け加えました。この長いエンディングは、今日の聖書にも掲載されていますが、ほとんどの版では、私たちの最も古く、最も良い写本にはないことを示す脚注が付されています。
では、マルコのエンディングに何が起こったのでしょうか?この問いに答える前に、いくつかのことを明らかにしておく必要があります。第一に、マルコには復活がないというのは真実ではありません。イエスは繰り返し復活を予言し(マルコ8:31、9:9-10、9:31、10:34、14:28)、弟子たちにガリラヤで再会すると告げています(マルコ14:28)。マルコの福音書においてイエスは常に信頼できる人物であり、マルコの視点から見れば、イエスは死からよみがえり、弟子たちはガリラヤで生きているイエスを見たのです。天使もまた絶対的に信頼できる人物であり、ガリラヤでの復活と復活の出現を予告しています(マルコ16:6、16:7)。つまりマルコにとって、復活と復活の出現は歴史の事実なのです。
なぜマルコはこれらの復活の出現を記述しないのでしょうか?マルコは復活について記述していたが、福音書の最後のページが失われたと考える学者もいます。その可能性もありますが、マルコが福音書をこのように終わらせるつもりだった可能性の方が高いと思われます。多くの点で、福音書全体は試練と苦しみに直面した信仰への呼びかけであると言えるでしょう。マルコの読者は、信仰のために苦しんでいたと思われますが、復活の告知を聞いたが、イエスが肉体的に共におられる姿は見ていません。つまり、彼女たちと同じ立場にあるのです。彼女たちは信仰をもって応答するのでしょうか、それとも恐れを持って応答するのでしょうか。マルコの福音書全体は、空っぽの墓の話も含めて、不確かな未来を前にして、恐れではなく信仰を呼びかけています。

マルコは誰で、なぜ書いたのか?

厳密に言えば、4つの福音書はすべて無名ですが、初期の教会の伝統は、第二福音書の著者をバルナバのいとこであり(コリ4:10)、エルサレムの教会で著名な女性マリアの息子であるヨハネ・マルコと特定しました(使徒12:12)。このような記述はおそらく正確でしょう。マルコは使徒言行録の中ではマイナーな人物であり、無名の親族が福音書を書いたという伝承を教会が作り出したとは考えにくいです。
教会の伝統によれば、マルコはバルナバや使徒パウロと共に働いただけでなく(使徒13:5、13:13、15:37-41;2テモ4:11)、後にローマでペテロと共に働いたとされています。初代教父パピアスは、マルコはペテロの通訳となり、彼の福音書はペテロの福音書を反映していると言っています。これにはいくつかの理由があります。第一に、1ペテロ5:13は、ペテロとマルコがローマで一緒に働いていたことを示唆しています。第二に、もしペテロの権威がマルコの福音書の背後にあるとすれば、この福音書が教会に受け入れられた理由、またマタイとルカが自分たちの福音書の出典としてマルコの福音書を使おうとした理由を説明するのに役立つでしょう。第三に、ローマの教会はこの頃(紀元前64年)、ネロ皇帝の下で厳しい迫害を受けていたと言われています。この迫害の状況は、マルコの物語のテーマと目的によく合っています。福音は、苦しみや死に直面しても忠実な弟子となることを求めるものです。「私の弟子になりたい者はだれでも、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私について来なければならない」(マルコ8:34)とイエスは言われました。
要約すれば、マルコの福音書は、イエスがメシアであり、神の子であり、その死と復活が私たちの罪の罰を贖い、サタン、罪、死に打ち勝ったということを物語的に宣言しています。この喜びの告知とともに、信仰と十字架を背負う弟子としての生き方をすべての信者に呼びかけているのです。

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