「神様はどこにおるん?」みなさんならどう答えますか?


最近、友人と話していて「神様はどこにおるん?」という質問をされた。その時はなんとか答えたつもりだが、自分が感動するポイントや、自分にとって確かだと確信している考え方が必ずしもその人の頭に入るわけではない。

みなさんならこの質問になんと答えますか?

話している中で、私自身が驚かされたのは私は、数学的、物理的な説明がとても楽しいということだ。数式を見せ、科学者の見解を語り、その合理性を提示して神が存在することを説明するのが楽しいという発見だった。しかし、その友人は私に答えた

「頭よーないと、神様がおるってわからへんな」

自分では数学が好きなだけで興奮して話していただけだった。改めて、コミュニケーションというものは複雑だと思い、違う角度から説明してみた。

正義としての神
それは、道徳基準に関する角度だ。
僕は、こう尋ねた
「この世界にしてええことと悪いことは存在すると思う?」
彼は答える
「あると思う」
僕はさらに尋ねた
「じゃあ正義が存在すると信じてるんやね?」
彼は答える
「正義はある」
僕はここで聖書の価値観を提示した。
「正義を別の言い方で言うと神やねん」
彼は答える
「なるほど」
次の僕の質問はこうだ、
「じゃあ、正義って目に見える?」
彼はこたえた
「うん、見える。誰かがいいことしていたら見える。」


「そうね、でも概念は目に見える?」

「概念は目に見えへんけど」

「そういう考えでええとおもう、今は目に見えないもんを“正義”という言葉に置き換えてるけど、聖書はもっと複雑で、様々な角度がある。例えば“思いやり”、“愛”とか。でも、どれも人を通さんと形として現れへん。そこで登場するんがイエスキリスト。」

「概念的なもんが目に見える形で現れる」
僕「そう、そしてそれが正義やと思うなら、その正義が正しいと思うなら、その神(正義)を正しいと信じていることになる。」

彼「キリスト教ってすごい現実主義なんやね。うん納得した。」
僕「つまり、神がいないと言うことは、この世界に正義が存在しない、愛が存在しないと言うてることと同じになるかな。」
彼「なるほどね。」

現代では、神の存在を「髭の生えた老人が雲の上に座っていること」と定義づけてしまっていて、簡単に「神なんかいない」といってしまいがちのようです。
しかし、聖書はそのような神を語っているのでしょうか?
むしろ、私たちの生活により密接に関わっているように思えます。

聖書において、神にはさまざまな名前が与えられています。時にそれは「正義」出会ったり、「恵み」であったり、「愛」であったりします。

みなさんなら、「神はどこにいるの?」という質問になんと答えますか?

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