見出し画像

聖書を読むコツ:いのちの木③     ー 二つの木の伝説 ー

園にある二つの木

創世記1章から初まる物語は、エデンの園の完成に向かっています。そしてその美しい世界には、川が流れていました。そして、その川はエデンから流れ出て、広大な地域を潤していました。

エデンから川が流れています。すこし考えてみてください、エデンは、高い場所にあるでしょうか?それとも、低い場所にあるでしょうか?
日本に住んでいるなら、お分かりだと思います。川は山から流れます。高いところから流れています。つまり、エデンはかなり高いところにあり、そこから川が流れていたことになります。

創世記2:10-14
一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、
そこから分かれて、四つの源となっていた。

第一のものの名はピションで、
それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。
その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。

第二の川の名はギホンで、
クシュの全土を巡って流れる。

第三の川の名はヒデケルで、
それはアシュルの東を流れる。

第四の川、それはユーフラテスである。

画像1


このことから聖書は、高き所において、園が豊かな木々で満ちているとこを紹介しています。園の中央には、いのちの木があるとう表現があります。このように、そのの中央に神秘的な木があるというのは古代の文化においてごく一般的な描写です。聖書の中におけるいのちの木の表現は、神が人々にいのちを贈り物として与えているという表現です。さらに、この表現は古代の価値観と共鳴もしくは対立しています。人々が限りなく神に近づき、その臨在の中でいのちを受け取ることを、その木は表しています。

また、別の木が園の中央にあります。善悪知識の木です。
「善悪を知る・善悪知識」というフレーズは聖書のいたるところにあり、それは子供の「道徳的幼さ」について語っています。神様は人々が神から知恵を学び終えるまで、善と悪から遠ざけておきたかったというのが聖書の物語です。これはただのおとぎ話でしょうか?私たちの眼の前には、この二つの木のような選択肢は置かれていないでしょうか?、、、、自分の知恵を信じるか、それとも神の知恵を信じか、、、そうです人類は今もなお選択があります。神から知恵を得るか、それとも自分たちのために奪い取るかです。

神の初めの命令をよく見てみると、いのちの木に立ち入ることを禁じていません。園の中にある木々のどれにでも手を伸ばしていいというのが、はじめの言葉です。神様は永遠のいのちの贈り物を人々が楽しむように命令しているのです。しかし、善悪知識の木は神が与えたものを失うことになるという注意をしています。

創世記 2:15-17
神である主は人を連れて来て、
エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。

神である主は人に命じられた。
「あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。
その木から食べるとき、

あなたは必ず死ぬ。」



木々の中での選択


いのちと死の選択は、創世記3章ではアダムとイヴ、創世記4章ではカインとアベルによって演じられています。神様は善悪知識の木からとって食べれば、「殺す」とは言っていません、「死んでしまうよ」と言っているのです。そして、アダムとイブ、さらに、カインも死を生み出す決断をしてしまいました。初めの死は神から来たのではなく、自分たちの都合で善悪知識の実を取った人から来ています。

さて、園の中央にある二つの木は並んでいるように描かれています。つまり、もしも一つから取って食べるなら、もう一つは取らずに通り過ぎさります。もしくは、片方の木からは離れることになります。

この二つの木は人の状態によってアクセスできるかどうかを決められます。まず、永遠いのちは私たちに贈り物としてそこにあります。しかし、それを受け取るには自分たちの知恵に頼ることを拒否しなければなりません。同じように、私たちは自己中心的な動機を認識しないまま、人生に散りばめられている良いと思えるものに興味をそそられます。


善悪知識を取る


創世記 3:1-6
さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、
ほかのどれよりも賢かった。

蛇は女に言った。
「園の木のどれからも食べてはならないと、
神は本当に言われたのですか。」

女は蛇に言った。
「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。
しかし、園の中央にある木の実については、
『あなたがたは、それを食べてはならない。
それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』
と神は仰せられました。」

すると、蛇は女に言った。
「あなたがたは決して死にません。
それを食べるそのとき、目が開かれて、
あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、
神は知っているのです。」

そこで、女が見ると、
その木は

食べるのに良さそうで、
目に慕わしく、
またその木は賢くしてくれそうで

好ましかった。

それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、

夫も食べた。


ここでの話は蛇が賢いものとして紹介されています。賢いものは、その知識を良いことまたは、または恐ろしい結末を導くために用いることができます。蛇は神の言葉を人の頭の中でひっくり返し、
そして女は善悪知識の木を、

見て、
欲して、
取った。

この選択をしていく工程は、聖書における「試練の型」となっています。「善悪の知識を知れる」というフレーズをよくよく考えてみると、いいことのように思えます。つまり、この試練とは「良いもの」と「よく見えるもの」の間にある選択なのです。聖書においてこれらは「試練の瞬間」としてしばしば、現れます。

その木から、男と女が取って食べた時、彼らの目は開けて、彼らの儚さを知り、そして隠れました。
神は彼らの状態を、「神々(エロヒム)の一人のようになった」と表現しました。

創世記 3:22a
神である主はこう言われた。
「見よ。人は

われわれのうちのひとりのようになり


善悪を知るようになった。


ある意味で、人はエロヒムの一人になり、悪から善を知しりました。彼らは、彼らに知識を与えるという神様に信頼する代わりに、人は自分たちのためにそれを奪ったのです。

善悪知識の木から取ることによって永久に腐敗していくような表現は聖書のいたるところであります。モーセにとってそれはシナイ山での出来事でした。モーセが「高き所」で神と出会います。そこには「木」がありました(燃える柴)。彼がその場所で神と出会った時、神からの命令を授かります。そして、その約束と契約は、イスラエルと神との契約にまで発展しています。そして、それに対しての従順は、「いのちと死」に比較されています。モーセはイスラエルの民に、神に従うことを、「いのちを選びなさい(申 30:19)」と言いました。もっとも大切なことは、自分で何かを奪うことではなく神様の声を聞くことでした。人は、神の語りかけを無視して、死を選んでいくのが聖書の物語なのです。

創世記 3:22b
今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、
永遠に生きることがないようにしよう。」

誰もが死(不従順)を選んでしまう、、この希望がないような状況の真っ只中において、神様は人々に、彼らの子孫がもう一度この試練を繰り返すことを約束します。私たちにこの瞬間を思い起こさせるために、聖書の著者は主要な人物たちがうける試練の瞬間を「高き所の木」がある場面で描きます。 アダムとエバから見られるように、ユダヤ的な試練ということは、自分の能力(選択する力など)を示すことではなく、真実(その試練を受ける人が本当はどのような人間か)を暴くことです。

善悪知識の木の物語は私たちの失敗を表しています。しかし、聖書を読んでいくと、数少ない登場人物が、主の人格と約束に信頼し、試練を乗り越えていきます。これら物語は、私たちが園でしてしまったことをやり直すために神のいのちで満たされ、神の中に臨在する人が必要であることを伝えています。

アダムとイヴは園で悔い改める機会を逃しました。神に赦しを求める代わりに、神様を拒否し、お互いに責任転換を始めました。この物語は、私たちが選択を迫られた時の私たちの状態を描写しています。

神様は私たちに素晴らしい贈り物を楽しむことを命令しています。そして私たちは素晴らしい贈り物を神から受け取るのか、それとも自分たちで自分たちのために善悪を判断するのか、という選択の前にいます。

画像2


生活費やChrist Communityの今後の活動などに使わせていただきます。 最少額でも、大きな助けになります!