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京都にある「応挙寺」に参拝して

 昨日(12/13)訪れた太秦の悟真寺は、「応挙寺」と呼ばれている浄土宗の寺院で、円山応挙の墓があることで知られている。場所は広隆寺と大酒神社の間に位置し、境内には自然幼稚園があり、それが目印になる。お墓は敷地に入って突き当りにあるのでわかりやすい。以上、本日tweetをしたので、応挙について書いておく。

 丹波国穴太(あのう)村(現、京都府亀岡市)の農家で生まれ、貧困から8歳ごろに近くの金剛寺へ小僧に出され、15歳の頃京都へ出て狩野派門閥であった石田幽汀(1721~1786)に画技を学ぶ。当初は生活のために、呉服屋へ奉仕し、その後玩具商の「尾張屋」にて眼鏡絵(絵をいったん鏡に映し、それをレンズで見るために用いる絵)の制作に従事した。この際に、オランダ渡来の眼鏡絵を参考にしたことで、写実的な西洋画法を知る。また中国の宋元(そうげん)院体画の精緻(せいち)な描写にも大きな影響を受けた。

 明和4(1767)年に三井寺円満院の祐常(ゆうじょう)門主の知己を得て、本格的な画家としての生涯を歩み始めると、祐常門主が亡くなるまでの8年間、様々な知見を得ると共に多くの作品を手掛け、西洋と東洋の画法を取り入れた写生をベースにした自らのスタイル確立を目指して試行錯誤を繰り返した(これを円満院時代と呼ぶ)。
 とりわけ個物に対する写生を熱心に行って多くの写生帖を遺し、より平明で穏やかな感覚の画面を追求した結果、独自の「付立(つけた)て」筆法を完成させ、生み出された作品は多くの支持を得ることとなった。さらに豪商三井家や狩野派の独断場であったはずの宮中関係の庇護を受けて御所の襖絵も担当し、その元来の穏やかな性格も相まって、弟子の数も一気に1000人を超えることとなり、一躍京都画壇の寵児となった。
 応挙が主張し、描いた「写生」とは現在のスケッチのようなありのままのものを「写し取る」ということよりも、そういった姿勢で対象物を捉えることで、その対象物の「本質」を描き出すということに目的を置いていたとされている。

 応挙のもとにはすでに息子の応瑞(おうずい)(1766―1829)や長沢蘆雪(ながさわろせつ)、松村月渓(げっけい)(呉春(ごしゅん))、吉村孝敬(こうけい)(1769―1836)、駒井源(こまいげんき)(1747―97)、山口素絢(そけん)(1759―1818)らの弟子が集まって一派を形成し、その画派は円山派さらには四条派として、明治までの長い間、美術史上の重要な存在としてその地位を保ち、近代日本画の展開の基盤となった。
 四条派の流れを汲む画家としては、塩川文麟、幸野楳嶺、竹内栖鳳上村松園、橋本関雪、西山翠嶂、堂本印象など現代まで続いている。


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