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本日は徳川家康が朱印船貿易を開始~京都では角倉了以が活躍~

本日は徳川家康が朱印船貿易を開始した日。慶長6(1601)年。つまり家康=鎖国は間違いということ。むしろ、信長秀吉が作り上げた安土桃山時代は、南蛮貿易が盛んであり、当時、急速に増えたキリシタン大名もキリスト教への信仰というよりも、南蛮人と交流することで貿易の実利を取ろうとしたと考えられる。

そんな時代背景の中で、誰よりも利と世情に敏い家康がこれを無視するはずはない。むしろ大きな収益源と情報源として江戸幕府をあげて積極的に取り組み、もっと言うと独占を狙っていた。そのためウイリアム・アダムスなどに命じて、専用の船まで造らせているほどだ。

貿易港を出入港とも長崎に限定し、朱印状をもたせて貿易を許可した。これらの船を朱印船といい、こういった船を造れる財力のある者、主に豪商がこれに参画したのだ。京都からは角倉了以茶屋四郎次郎が実績を上げた。

特に角倉了以は、秀吉の頃から角倉船と呼ばれる貿易船を出しており、莫大な資産を元手に保津川や高瀬川の開削といった土木事業にも進出している。了以は嵯峨生まれで、墓は二尊院にあり、保津川を開削したことから、嵐山公園に銅像があり、自ら再興した大悲閣千光寺には木像も安置されている。また高瀬川の旧土佐藩邸跡には銅板のレリーフが置かれている。邸宅は嵐山以外にも高瀬川の入口にも広大に造営され、山縣有朋らの手に渡り、現在はがんこ二条苑として庭園が存続している。

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結局のこの朱印船貿易事業は家康の死とともに、キリシタンの危険性などもあって縮小され、オランダと中国のみが長崎の出島で行うこととなり、家光の時代になるとそれ以外の国とは関係を絶ち、いわゆる鎖国体制(実際は完全に閉じていない)が完成したということになる。

この貿易という観点で見た時に、日本史の中で外せない上位に来る人物が、平清盛(日宋貿易)、足利義満(日明貿易)、織田信長(南蛮貿易)だと思っている。これら3人が意思半ばでこの世を去ったことにより、現在の貿易大国日本になるにはずいぶんと時がかかってしまった。今現在の日本の有り様からして、彼ら3人の着眼点はまさに正しかったのである。


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