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明治初期、京都を救った3人の行政官とは?

京都は「禁門の変」の後も、江戸幕府の「大政奉還」、さらには「鳥羽・伏見の戦い」の災禍に見舞われます。さらに明治2(1869)年に戊辰戦争が終わると、明治天皇が東京行きを決めるという衝撃が走ります。これは市中の動揺が余りにも大きく、市民による中止嘆願が強まったため、新政府は「天皇はしばらく東行するだけ」と苦しい言い訳をして、実行に移しました。結果的に御座所と政府機関が、東京に移ったため公家や官吏、主だった商人も後を追い、御所周辺の公家町はほとんどが消滅しました。


京都の商工業は、朝廷や主だった商人への依存度が高かったことから大打撃を受け、その衰微は著しく、人口も維新前の35万人弱から、23.5万人強の3分の2へと急減してしまいました。
この京都存亡の危機に立ち向かったのが、同時に開設された京都府でした。初代知事・長谷信篤が中心となって獲得した10万円の産業基立金、15万円の勧業基立金、租税免除の特典などを活用して、街の復興に向けてさまざまな施策を実施します。

さらにはこれを引き継いだ2代知事・槇村正直は、政府の元老木戸孝允の懐刀といわれたことから、その支援も得て勧業政策・開化政策を推進し、明石博高(あかしひろあきら)・山本覚馬といった有能な行政人を登用し、迅速に施策を展開しました。この槇村の施策に京都の商工業者(町衆)が呼応し、京都の振興と近代化が進みました。槇村は知事の任期4年、副知事補佐の時代から合わせて13年もの間行政の中心に座り、遷都後の京都復興のために積極的な勧業政策を行ったのです。

衰退した京都を救うために陣頭指揮を執った槇村正直、その案は『管見(かんけん)』という意見書を提出した山本覚馬の提言が多く採用されています。旧会津藩士であった山本覚馬は失明したことがきっかけで戦場を去り、蘭学などの広い知見を活かして京都に大きく貢献したのです。さらにその山本覚馬の提言を実施した責任者ともいうべき人物が明石博高でした。京都出身で医者でもあった明石は、舎密局を開設するなど、近代化に寄与する政策を次々と実行に移し、京都の産業に大きく貢献したのです。

明治初期の京都の復興は、この3人の活躍を無くしては語れない。そう思います。

山本覚馬 邸宅跡


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