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9/24は西郷隆盛の命日!その生涯とは

< 西郷が育った薩摩藩とは >
 藩主である島津氏は、鎌倉幕府の守護以来の歴史を持ち、戦国大名として名を馳せた島津義弘の三男である家久が初代藩主となりました。加賀藩に次ぐ大藩であったことから常に幕府の厳しい監視下と過酷な労役のもとで藩財政が逼迫していました。しかし、「薩摩に暗君なし」と称されるように、歴代藩主は英邁で、文政10(1827)年に断行された調所広郷の藩政改革が功を奏して雄藩となり、幕末は島津斉彬の画策で薩摩出身の篤姫が13代将軍徳川家定の正室になるなど幕府に対する発言力も強めました。斉彬死後も実弟であった久光が公武合体を進めて存在感を示し、西郷、大久保らの逸材が薩摩藩を動かして討幕を成し遂げ、明治政府の要職を長州藩と二分しました。

< 名君・島津斉彬の懐刀として台頭 >
 島津斉彬は薩摩藩主となると藩政改革に乗り出します。すでに調所広郷の改革によって、財政的窮地を脱していたことから、近代化を推し進め、江戸幕府内においても存在感を増していきました。西郷は当初は郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)をしていましたが、斉彬の目に止まり、参勤交代に随行を命ぜられました。江戸に入るとほどなく庭方役に大抜擢され、斉彬の手足となって諸藩との連絡、相談、調整役を任されるようになりました。越前藩の松平慶永橋本左内と親交を深め、水戸の徳川斉昭、伊予の伊達宗城といった著名な藩主にも知られるようになり、とくに水戸藩の学者であった藤田東湖の唱える尊王攘夷論には大きな影響を受けて師と仰ぎました。
その頃、幕府内では次期将軍を巡って一橋慶喜をおす島津斉彬らの一橋派と、紀伊(和歌山県)藩主・徳川慶福(家茂)をたてようとする大老・井伊直弼紀伊派の対立が激しくなっていました。西郷は、参勤交代を終えて鹿児島にかえっても斉彬の命によって江戸や京都で活躍し、清水寺成就院の月照とも親交を結びました。しかし、情勢は紀伊派が優勢となり、第14代将軍には家茂が決まります。そんな中で、幕府に政治改革を求めて上洛の準備をしていた島津斉彬が急死しました。

< 斉彬の急死と久光との確執 > 
 斉彬の急死は西郷に大きな衝撃をもたらし、全てを捨てて殉死まで考えた西郷でしたが、月照らの説得で立ち直ります。しかし、大老・井伊直弼が断行した安政の大獄は大変厳しく、昵懇であった橋本左内も捕まり、西郷や月照にも追手がやってきました。西郷は、ひとまず薩摩に逃れて、月照を匿う考えでしたが、藩の実権が弟の久光に移った薩摩藩からは、月照の入国を拒否され、悲観した西郷は錦江湾に月照とともに身を投げました。西郷は救出されて蘇生しましたが、月照は帰らぬ人となり、西郷自身も奄美大島に流されて3年の月日を過ごすことになりました。島民には飾らない面倒見のよい性格が大変慕われ、島の娘・愛加那との間に2人の子供をもうけました。
 この間、薩摩藩では盟友・大久保利通が島津久光に気にいられて台頭し、安政の大獄を主導した井伊直弼が殺されるという桜田門外の変が起こり、尊王攘夷の嵐が吹き荒れて不穏な情勢へとなってきました。藩の実権を握っていた島津久光は、兄の幕政改革の遺志を継ぐのと、この不穏な情勢を落ち着かせ、薩摩藩の存在感を高めるべく、上洛を画策します。大久保は、この時とばかりに西郷の必要性を説き、ついに西郷を呼び戻すことに成功しました。ところが久光と西郷は当初からそりが合わす、西郷は上洛の際に先行して長州で待つように命ぜられていたにも関わらず、久光上洛で沸き立つ、京都・大坂の志士の動きを鎮静化させるために、久光が到着するのを待たずに長州を出発しました。これで怒りの頂点に達した久光は、西郷に島流しを命じ、西郷は今度は徳之島、さらには沖永良部島へと移されました。この時の久光の上洛では寺田屋事変が起こり、さらに生麦事件も起こり、翌年の薩英戦争へと発展しました。

< 薩摩VS長州→薩長同盟へ > 
 尊王攘夷の先鋒として活躍していたのは、幕末には藩政改革が功を奏して雄藩となっていた長州藩であり、朝廷にも深く入り込んでいました。しかし、過激な尊王攘夷はやがて討幕へと向かいはじめ、朝廷内からはこれを危険視する動きも生まれます。そこで、京都を守護していた会津藩と薩摩藩が手を組んで、一斉に長州藩を朝廷内から追い出す「八月十八日の政変」を断行します。捲土重来を期す長州藩と、それに便乗する尊王攘夷の志士で、ますます情勢は緊張感を増し、薩摩藩としてもこの難局に、ついに衆望のある西郷を再び呼び戻しました。
 長州藩は、池田屋事変でその怒りが頂点に達したこともあり、勢いよく京都へ進軍。責任者の久坂玄瑞らもその勢いを止められず、「蛤御門の変」を起こします。蛤御門では押し気味の長州藩に対し、西郷の指揮する薩摩藩が横から痛烈な銃撃を浴びせ、リーダーの来島又兵衛を討ち取り、ついに敗走させました。その結果、行われた第一次長州征討では、西郷は参謀を勤め、途中から方針転換して長州の息の根を止めることをせず、長州藩上層部の切腹などによって事を収めました。しかし、この結果に満足しなかった江戸幕府や会津藩らの主張によって第二次長州征討が画策されます。この時は、薩摩藩はそれに応じることはありませんでした。この時、薩摩藩と長州藩では日本史を揺るがすような大きな同盟が結ばれていたからです。
 時代は幕府に対抗できる勢力を必要としており、土佐藩を脱藩した中岡慎太郎のように両藩の関係修復を働きかける人物も次第に現れ、そして話し合いの交渉だけでは簡単には埋まらない両藩の溝を埋めるに大きな役割を果たしたのが坂本龍馬でした。龍馬は薩摩藩の援助によって設立した自らの組織である亀山社中の船を使って長州藩が切望していた武器を薩摩藩名義で購入して長州に引渡し、長州藩からは薩摩藩に不足していた米を運ぶというプランで両者の長年のわだかまりを氷解させ、大きく同盟にむかって前進させ、最後は自らが立ち合って薩長同盟締結を完成させました。

< 鳥羽伏見の戦い > 
 第二次長州征討は長州藩が劣勢を覆して各地で連戦連勝し、将軍家茂の死によって、休戦という形を取ったものの、江戸幕府はもはや一藩すら押さえられないという弱体ぶりを晒すことになりました。さらに高まる尊王攘夷と討幕論を押さえるべく、最後の将軍となった徳川慶喜大政奉還をおこないます。これによって、薩摩長州側は江戸幕府がなくなったため、討幕の名目を失いました。しかし、朝廷内で行われた小御所会議では徳川家の辞官納地が決定し、再び徳川慶喜に大きな圧力をかかります。慶喜は新政府軍との衝突を避けるために会津藩・桑名藩とともに大坂城へ退却しました。この衝突を避けた冷静な判断は徳川慶喜の評価を高め、新政府内にも諸侯・公卿・諸藩士の参加によって国政を運営するという公議政体論が主張されます。
 この状況を一気に打開するために西郷隆盛らは江戸で騒乱を起こし、旧幕府を挑発して武力衝突に持ち込もうと画策しました。そして江戸の市中取締役・庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちする事件が起こり、その一報が大坂城へ伝わると、徳川慶喜もついに薩長との武力衝突を決意して、戊辰戦争の戦端となる鳥羽・伏見の戦いへと突き進んでいきました、
 慶応4(1868)年元日には討薩を表し、翌2日には1万5千人におよぶ旧幕府軍が大坂城から出陣し、伏見街道と鳥羽街道の2隊に分かれて進軍、鳥羽で薩摩軍による砲撃が始まると伏見でも激戦が繰り広げられました。兵の数では旧幕府軍が勝っていましたが、最新の銃砲装備を持つ新政府軍の圧倒的な戦力によって旧幕府軍は敗走しました。

210428 鳥羽伏見の戦い 石碑 (1)

< 明治政府での役割と決別 > 
 戊辰戦争は鳥羽・伏見の戦いを戦端とし、西郷隆盛が率いる新政府軍は、江戸城無血開城を実現し、旧幕府軍は上野戦争・会津戦争と激しい戦いを繰り広げましたが、いずれも新政府軍の勝利に終わりました。一方、旧幕府海軍・副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率いて各地で敗北した旧幕府軍を集め、箱館の五稜郭で最後まで新政府軍に抵抗しました。しかし、明治2(1869)年5月、箱館戦争で降伏して戊辰戦争がここに終結しました。
さっそく明治新政府は「 五箇条の御誓文」を公布して基本方針を示し、人心を一新するため、明治2(1869)年9月には年号を「 明治 」と改め、同年7月には「 江戸 」を「 東京 」と改め、明治天皇が京都から東京へ移り、さらに翌年には政府の諸機関も東京に移されました。
 明治政府は、諸藩主が領地と人民を朝廷に返還する版籍奉還を実施し、さらに中央集権体制への移行を進め、明治4(1871)年に藩体制を廃止する廃藩置県を断行しました。

■ 版籍奉還 はんせきほうかん
 明治2(1869)年、諸藩主が領地と人民を朝廷に返還した藩解体政策の第一歩。木戸孝允・大久保利通らの画策により、まず薩長土肥の四藩主が奉還し、他藩もこれにならいました。政府は全国の支配権を手中におさめ、藩主を知藩事に任命、以後、廃藩置県など中央集権化を推進しました。

■ 廃藩置県 はいはんちけん
 明治4(1871)年7月、全国の藩を廃して府県を置いたこと。これにより中央集権的統一国家が確立されました。当初、北海道を除いて3府302県( 幕末時は約270藩が存在 / 沖縄県の設置は1879年 )、年末までに3府72県と整理されました。

 明治維新後は、いったん故郷の鹿児島に帰って悠々自適の生活をし、藩政改革などを手伝っていた西郷でしたが、新政府から呼ばれ、中央政界に復帰します。欧米視察組が不在の中で、征韓論が決定ましたが、帰国した大久保らの反対によって覆され、怒った西郷は辞職して、再び鹿児島に戻りました。

■ 征韓論 せいかんろん
 明治6(1873)年、西郷隆盛・板垣退助らが朝鮮の排日的鎖国主義を名目として、これを討つことを主張した論のこと。同年、欧米視察から戻ってきた岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは内治優先を唱えて征韓論を退けました。以後、征韓論を唱える一派は下野して、士族反乱や自由民権運動を展開しました。

< 西南戦争での死とその後 > 
 その後、明治6(1873)年、征韓論を巡って政変が起こり( 明治六年の政変 )、征韓より内政充実を主張した大久保利通が政府の中心となって支配体制を確立しました。
 特権を奪われた士族( 旧武士 )の不満は高まり、萩の乱、神風連の乱、佐賀の乱など立て続けに士族の乱が起こります。征韓論によって下野した西郷隆盛は帰郷して私学校を興しましたが、その生徒が次第に不満を高め、ついに西郷を擁して挙兵し、最大の反乱・西南戦争が勃発します。薩摩軍は鹿児島から13000人の兵力で出発し、上洛して明治政府にその方針を正すことを目的としていました。途中で20000人までに膨れ上がった軍は、熊本城に立てこもる熊本鎮台( 陸軍の部隊 )を包囲しました。激しい砲撃戦が繰り広げられましたが、思った以上に政府軍の抵抗が頑強であり、手こずるうちに次々と政府軍の援軍が到着し、日を追うごとに薩摩軍は不利になりました。最後の激闘となった田原坂の戦いで、政府軍が勝利し、軍を解散して鹿児島へと敗走した薩摩軍は城山にこもり、西郷隆盛ら指導者の多くが自刃しました。西郷は49歳でした。
 西郷隆盛は、なぜ勝ち目の低い西南戦争を起こしたのでしょうか。軍事的な力量を持つ西郷にとっては、この戦争は勝てる見込みの薄いものとわかっていたはずです。事実西郷は挙兵した後も、指揮をとることは一切なく、作戦にも口出しをしませんでした。はじめて全軍に向かって発した言葉が解散宣言だったとも伝わります。西郷にとって、この戦いは自らが育ててきた士族(とくに薩摩)たちの行き場を失った末の、誤った行く末でした。西郷はこの士族たちの活躍の場を真剣に考え、士族をなくして平等化を図る日本政府との間にたって苦慮していましたが、ついに最後の最後でその調整を諦め、自らの身体を預けることによって、士族たちの戦いに終わりをもたらしたのです。


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