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幕末の偉人を多数輩出!佐久間象山

文化8(1811)年~元治元(1864)年
 松代藩の下級武士の出身とされるが、そのルーツは諸説あり。村上義清に仕えた佐久間大学、あるいは柴田勝家の甥で賤ヶ岳の戦いで活躍した佐久間盛政、上杉謙信に仕えた斎藤朝信など。象山は幼少からその才を発揮し、数学、儒学を学んで頭角を現した。特に最初に開いた私塾では儒学を教えている。

 後に老中に就任した藩主の命によって西洋兵学を学び、自らも大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。当初から成功したわけでなく、暴発させるなど、失敗も重ねたが、成功するには失敗が必要と意に介さなかった。
 江戸で開いた私塾には吉田松陰勝海舟などの逸材をはじめ、江戸遊学中であった坂本龍馬も通っている。特に懇意であった吉田松陰の密航事件に連座して蟄居するが、一橋慶喜に招かれて入洛し、公武合体論と開国論を説いたため、尊王攘夷の急進派に襲われて命を落とした。享年53。
 刺客は幕末四大人斬りの一人である河上彦斎(かわかみげんさい)とされるが、河上はのちに佐久間象山を知るに及んで大変な偉人を斬ってしまったと、以後人斬りは止めたという噂も伝わる。その場所である御池木屋町上ルには佐久間象山遭難の碑が建っており(偶然にも大村益次郎が後にこの場所で遭難にあっている)、また墓は松代藩の菩提寺でもある妙心寺の大法院にある。春と秋に一般公開される非公開寺院。おすすめの訪問時期は紅葉の庭園が美しい秋、11月下旬がベストだ。

131126 大法院 (6)

 象山の性格は尊大で、周りを見下すような態度や発言も多かった。そのため、敵も多く、誤解を受けやすい人物であった。勝海舟の妹を妻としていたため、義兄となった勝海舟の人物評も「軽はずみでちょこちょこした男だった」となっている。まあもちろん師匠と弟子の関係でもあったので、一方では「先生」と敬ってもいたが。暗殺時も護衛の者もつけず目立つ格好で白馬に乗っていたというから余程自信があったのか。しかしその慢心が仇となってしまった。

 しかし、西洋兵学への知識や開国論、みずからの知識を隠すことなくつまびらかにすることなど、その真摯な態度は多くの弟子達にとって大いに刺激になったはずで、また時流も先を読んで行動を重ねた。その結果として日本の舵を大きく開国に向けた功績は大きい。幕末の偉人としてこれからも語り継がれるだろう。

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