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勝海舟の生き方から学ぶべきこと

今日は幕臣・勝海舟の命日。明治32(1899)年、享年77。

その信念は、「窮地の日本をどのように救い、発展させるか。」の1点に集約されていた。

◎最も重要な 「 海軍 」 に目をつけた
 勝海舟は幕臣であるが、決して身分が高いわけではなく、その存在を高めていくことにまずは努力を行ったわけであるが、その結果熱心に取り組んだのが蘭学であった。これがきっかけで長崎伝習所(勝は第一期生、第二期生に榎本武揚がいる)への道が開け、さらに咸臨丸でアメリカに渡るというチャンスを掴んだのである。この咸臨丸での経験によって、「海軍創設と増強」こそが日本という島国が取るべき最重要課題という信念を持つに至った。
 この勝海舟の先見性と実行力は、のちに「開陽丸」を筆頭とする優秀な幕府海軍として結実を見ることとなり、幕末において劣勢下に立たされる幕府側には、大きな切り札として力を発揮した。
 
◎「 咸臨丸の挑戦 」 を自ら体験した
 長崎伝習所での実績などから咸臨丸に乗り込むこととなった勝は、実際にアメリカの地を踏むことで大いに刺激を受けた。帰りは日本人のみの手による太平洋横断を成し遂げており、机上の勉学や理論だけではなく、実際に自らが体験することで、船の重要性をとらえ、その後の海軍創設のための大きな足掛かりとした。
 この結果、幕府も勝の経験を評価し、幕府の資金で神戸海軍操練所の開設にこぎつけることとなった。アメリカを見てきた勝の頭の中には幕府や諸藩といった垣根はなく、塾頭に土佐の脱藩浪人の立場であった坂本龍馬を抜擢するなど、「幕府のための海軍」ではなく、「日本のための海軍」という意識で動くこととなった。そしてこの勝の考え方と実際の行動は、坂本龍馬を筆頭に尊王攘夷の道しか知らなかった志士達にも大きな影響を与えた。

◎常に不慮の可能性も考えて準備した
 すでに幕府という組織は見限っていた勝であったが、身分はあくまで幕臣であり、そのトップである将軍は絶対的な主君であることには変わりはない。そのため裏切られたり、すぐに意見を覆す慶喜を好きにはなれなかったが、頼られると立場上引き受けざるを得なかった。
 特に最後に至っては幕府の全権を任されたため、日本一の大都会である江戸150万人の命をも預かる立場になったのである。西郷隆盛との運命の会見に臨む勝は、幕府の援助を強く申し出ていたフランスと手を切り、薩長側寄りのイギリスのパークスにも幕府の恭順の姿勢を強く印象づけた上で、万が一交渉が決裂した場合のことも考え抜いていた。
 勝は考えるだけではなく、実際に準備交渉も自ら足を運んで行っている。江戸の民衆を江戸湾から逃がすために、多くの船を用意させて実際に江戸湾に集結させ、江戸火消し衆「を組」の長であった新門辰五郎に、大量の火薬とともに市街地への放火を依頼し、新政府軍が入ってきたときの焦土作戦を行う手はずも整え、慶喜はイギリス艦隊によって亡命させる手だてまで考えていた。この本気の準備が、交渉に揺るぎない自信をもたせ、新政府軍は勝の交渉力に押される形で譲歩を重ねていったのである。

◎「 交渉術 」 最大のポイントは培った人間力
 勝の最大の魅力は、人間力の大きさである。まさに叩き上げで出世する過程で、多くの敵も作ったが、保守派の批判などは意も介さず、自らの信念を貫いた。
 その中で目指すゴールが一緒であるならば、幕閣でも他藩でも浪人でも民衆でも分け隔てなく接して実際に話をし、信頼関係を構築してきた。幕府の中でこういった人物は皆無であり、幕府の存亡の危機に、全権を勝に任せたのも、勝以外に適任者がいなかったからである。
 勝自身もこれを自覚しており、裏切られ、そりが全く合わない慶喜のために、厳しい交渉役を何度も引き受けたのは、他にやれる人物がいないからというのが大きな理由でもあった。引き受けたからには、その交渉を成功させるべくありとあらゆる手段を講じるのが勝の手法であり、その相手の心理を巧みについた交渉術は、歴史上類をみないほどの優れたもと評価できる。
 これらすべては勝自身が苦労重ねて作り上げてきた人間的器が基礎となっているのは疑いのない事実であり、その勝という揺るぎない存在が幕府のみならず、日本を「諸外国の植民地化」という日本史上最大の窮地から救ったのである。

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