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松永久秀の歴史的役割について

 本日、松永久秀の講座を終えて。

 久秀って、結果的に織田信長の上洛及び、天下人へ一気に駆け上がるお膳立てをしたんじゃないかと思えてきた。まずは以下に久秀の人生について。

 久秀の出生は謎に包まれており、出身地の候補として、山城、摂津、加賀、筑前、阿波、豊後、近江などがあり、一説には現在の長岡京市を中心とする桂川の西側一帯である山城西岡説もある。天文9(1540)年頃には、三好長慶に右筆として仕えたといわれいる。その後、天文11(1542)年には弾正と称して、三好の一軍を率いていたことが『多聞院日記』にもある。
 永禄2(1559)年、河内守護代・安見直政を破った三好長慶は、安見が大和へと逃れたため、久秀に追撃を命じ、久秀は同時に大和の筒井氏、十市氏らを破り、信貴山城を修築して入ると、大和支配に乗り出す。さらに大和北端の眉間寺山に新たに多聞城を築き、棟上げ式には奈良の人々が見物に訪れた。中でもイエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダの書簡には、「これ等の家(城)は塀及び塔(天守または櫓)と共に今日まで基督教国に於て見たること無き甚だ白く光沢ある壁を塗りたり」と記されている。つまり、城壁や塀が白漆喰で塗り固められており、塔のように見える天守もしくは櫓があげられていたことが窺える。
 これが日本で初めてともいわれる天守(四重の櫓と推定)であり(諸説あり)、また城の周囲を長屋状の櫓(多聞櫓)が巡っていた。長屋の壁も白漆喰で塗られ、鉄砲隊を配置できる実戦的な造りであった。
 何よりこの白亜の城は、奈良平野の遠くからも望見することができ、後年、検分に訪れた信長は衝撃を受け、これをヒントに自らの力を誇示するための城としての安土城を築くことになる。

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 久秀の権勢は時がたつにつれて強まり、将軍義輝にも直接仕えたり、主君長慶の子と並ぶような官位を授かったりするなど、三好家中の中でも抜きんでた存在となっていた。永禄7(1564)年に主君の三好長慶が没すると、久秀は翌年、三好家の跡を継いだ義継らとともに将軍足利義輝を殺害し(久秀は近年直接的には関与していないことが判明)、長慶亡き後も、三好一族と協調関係を図りながら、三好家を支えようとした。
 しかし、次第に権力を増す久秀を警戒した三好一族との間に溝が生まれ、ついに対立へと発展する。その結果、永禄10(1567)には筒井順慶、三好三人衆との戦いで東大寺が炎上し、大仏が焼け落ちてしまいる。この間、三好三人衆と反目して窮地に陥っていた久秀であったが、永禄11(1568)年に信長が足利義昭を擁して上洛すると、久秀は名物茶器の九十九髪茄子を献上して素早く信長の配下となり、逆に信長から軍勢を与えられて大和一国を平定し、領地を安堵された。
 この辺りに久秀の先見性、的確な状況判断が窺える。その際、奉じられた足利義昭は実の兄の仇であると松永久秀を配下に迎えることに難色を示したが、信長は松永の才能を認めたのか不問にし、将軍の怒りを抑えた。
 その後、石山本願寺との戦いなどに従事し、信長のもとで働き続けた久秀は、将軍・足利義昭の要請に応じて武田信玄が西上し始めた元亀3(1572)年、三好三人衆などと組み、反旗を翻した。しかし、天正元(1573)年に信玄が没し、義昭が追放されるともはや太刀打ちできないと信長に降伏して許される(奇跡その1)。

 その後は、佐久間信盛の配下で活動するが、天正5(1577)年には、再び信長に反旗を翻す。上杉謙信の西上に呼応しようとして、信貴山城に籠った。なんと信長はこの時も名物の平蜘蛛の茶釜を差し出せば命までは取らないと条件を出したと言われている(奇跡その2)。しかし、久秀は覚悟を決めていたのか、信貴山城にて平蜘蛛とも爆死を遂げたとも言われている。偶然にも10年前に大仏を焼いた同じ10月10日であった。

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 以上が久秀の生涯だが、このように主君の三好家に代わって権力を握ることで「下剋上」を行い、将軍家を揺さぶり(暗殺した可能性も)、畿内を制圧したからこそ、その後に上洛を果たした信長がスムーズに権勢を握れたんじゃないかと。
 このように信長の圧倒的カリスマ性や天才的イメージ、誰もなしえていない革新性の裏には、その手前で久秀が暗躍し、レールを引いていたことを大いに強調しておきたい。


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