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沢庵宗彭の命日(12/11)に大徳寺へ

 今日は沢庵宗彭の命日。正保2(1646)年、享年74で亡くなっている。たまたま臨済宗のバスツアーで大徳寺を訪問したが、全く沢庵についての話ができなかったので、ここに記しておく。

 但馬国の下級武士の家に生まれた沢庵は、7歳の時信長の命で羽柴秀吉が但馬に攻め入り、父・綱典が仕えていた山名家は滅ぼされた。そこで沢庵は、父の勧めもあり、戦国の世をいかに生き抜くべきか、その答えを求めて、仏道に入る事になる。
 そして出会ったのが、当時、仏教の中でも隆盛を極めていた禅の世界だった。京都大徳寺の薫甫宗仲(とうほそうちゅう)に随って大徳寺三玄院に入り、薫甫宗仲の師・円鑑国師春屋宗園の教えを受け、宗彭(そうほう)という号を授かっている。

 時は流れ、沢庵27歳の時に「関ヶ原の戦い」が勃発し、敗軍の将、石田三成の埋葬をする事になる。慶長14(1609)年、大徳寺の長老玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)は、沢庵を後陽成天皇に推し、詔をうけて沢庵は大徳寺153世の住職となったが、わずか3日で退座。この後、堺の南宗寺や故郷の出石の庵で放浪して暮らしたが、その間に徳川幕府は幕府中心の宗教制度を固め、天皇が宗教へ関与することを制限する。
 これに反対した沢庵は大徳寺の玉室、江月と連名で幕府への反論を京都所司代に提出すると、幕府は江戸表に3名を呼んで詰問し、沢庵は出羽上山土岐頼行へ身柄預りとなった。これは「紫衣事件」と呼ばれ、大徳寺・妙心寺長老が流罪にされただけではなく、後水尾天皇の譲位も引き起こした。


 土岐頼行のもとで優遇されて悠々自適の生活を送っていた沢庵であったが、徳川秀忠が亡き後は恩赦がでて、旧知であった柳生宗矩の運動もあって徳川家光に謁見し、家光は沢庵に深く傾倒した。家光は沢庵が江戸を離れることを許さず、東海寺を建立して、沢庵を住職にさせる。沢庵は、今回は時流にさからわず、家光のもとで仕えてついには最終的には紫衣事件において幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らへ紫衣を完全に奪還し、無住状態であった大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯を揺らぎないものにした。また柳生宗矩には「剣禅一味」を説いた『不動智神妙録』を与え、柳生新陰流にも大きな影響を与えた
 その最期は、誰も沢庵の弟子と名乗ることを許さず、野外に身を埋め、塚も墓を作ることも拒み、年忌を作ることも認めぬ遺言を残した。

 このように沢庵宗彭といえば、なんとなく「沢庵漬」を始めたお坊さん(命名は家光とも)というイメージがついていて、親しみやすさがあるが、相当気骨のある筋の通った人物だったということがわかる。


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