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琵琶湖疎水を作り上げた北垣国道

混迷の幕末期に但馬の庄屋の長男として生まれた北垣国道は、父親の勧めにしたがって、池田草庵の私塾にて儒学を学びます。折しも諸外国が日本に迫っていた時代であり、若き日の国道は尊王攘夷の波に乗って「生野の変」に参戦します。しかし鎮圧されたため、逃れて鳥取藩に仕官し、鳥羽伏見の戦いでは西園寺公望の軍に属して功績をあげ、明治維新後は高知県知事など要職につき、明治14年に京都府の3代目知事に就任しました。

この時期の京都は人口が35万人から25万人に減少するなど衰退期にあり、復興の起爆剤として北垣国道が着目したのが「琵琶湖疏水計画」でした。北垣は計画を進めていく中で、工部大学校(後の東京大学工学部)の田邉朔郎が卒業論文でこの計画を綿密に作成していたことから異例の大抜擢を行い、当時の京都府の年間予算の倍以上ともなる125万円という資金を投入して計画を発動させました。北垣は、第2代槇村正直時代の強権手法と異なり、目的税を新たに設置するなど府会や府民も巻き込みながら柔軟に計画を推進しました。外国人技師に頼らず日本人の手によって行われた初めての大工事であり、一時は囚人も動員するほど(犯罪率の減少あり!)の苦労の連続でしたが、明治23年9月に竣工に持ち込み、水力発電や市電の開通など様々な面で多大な貢献をすることとなりました。ちなみに竣工式前夜の竣工夜会では市内各戸に日の丸と提灯が掲げられ、夷川舟溜まり南側に祇園祭りの月鉾・鶏鉾・天神山・郭巨山が並び、如意岳の大文字も点火され、付近は人出で埋まり、盆と正月が一緒にきたほどの大賑わいでした。


北垣はそのほかにも官営事業はすべて民間に払い下げをし、京都商工会議所を設立するなど京都の近代化に大きな足跡を残しました。退任の送別会には1200人もの人が参加して別れを惜しんだと伝わります。その後は、内務次官を経て北海道長官となり、娘婿となっていた田邉朔郎を招聘して北海道の鉄道事業にも貢献します。最後は枢密顧問官に就任するとともに、晩年は「静屋」と号して思い出深い京都で過ごしました。嵯峨野にある祇王寺の本堂は、祇王の話を聞いた北垣が嵯峨野持っていた別荘の一棟を寄進したものです。

祇王寺071128 (2)

インクラインの下を通って南禅寺へ抜けるトンネル(ねじりまんぽ)に北垣が書いた文字が掲げられています。「雄観奇想」(ゆうかんきそう)、辞書によると「優れた眺めと思いもよらない考え」という意味になります。

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この言葉には多くの困難の中で自らが実施し、完成させたこの疏水事業に対する北垣の万感の想いが込められています。


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