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近衛文麿の命日に京都ゆかりの地を紹介

◆ 近衛文麿の人生 ◆ ~ 総理大臣を3度も歴任 ~
 近衛篤麿(あつまろ)の長男で、明治37(1904)年に父の死によって12歳で近衛家の第30代目の当主となる。育ちの良さ、京都帝国大学に進んだ学歴、180センチを越える高身長なども合わさって、将来を嘱望され、貴族院議長などを経て、同じく公家出身の政治家・西園寺公望の援助もあり、昭和12(1937)年に第1次近衛内閣を組閣した。
 当初は日中戦争に不拡大方針で臨んでいたが、盧溝橋事件をきっかけに石原莞爾(いしわらかんじ)などの反対派を押し切って戦局の拡大を容認。昭和15(1940)年、新体制運動を組織して第2次内閣を組閣し、日独伊三国同盟を締結、大政翼賛会を結成した。昭和16(1941)年には日米交渉打開にむけて第3次内閣を組閣したがアメリカとの交渉に失敗し、総辞職した。
 その後は、対米主戦派で総理大臣であった東条英機に脅されながらも終戦工作にも奔走し、昭和天皇の処遇などを、元首相であった岡田啓介米内光政らと相談したと伝えられている。(下記ゆかりの地にて紹介)
 戦後はマッカーサーと会談して日本を主導するように伝えられ、帝国憲法改正作業にも着手したが、GHQから戦犯容疑で指名され、昭和20(1945)年12月16日に青酸カリにより自殺した。なお異母弟の近衛秀麿は音楽家、作曲家として活躍している。

◆ 近衛文麿と京都ゆかりの地 ◆
 近衛家当主ということで、かつての近衛家が拠点とした京都には何度も足を運んでいる。仁和寺とは関係が深く、終戦前の昭和20(1945)年1月、仁和寺の近くにある別荘「虎山荘」にて、降伏後の昭和天皇のご進退についての話し合いを行っており、仁和寺の霊明殿の額は文麿が揮毫している。
 また嵐山の別荘「松籟庵」は現在、料亭となって存続しており、ここにも揮毫を残している。

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 また墓は菩提寺である大徳寺の墓所にある。

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