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多田武彦先生を追悼するために(じゃむか通信79号より転載)

「多田です。作曲家の」そういって先生はいつも私にお電話を下さった。

初めて先生のお声を聞いたのは2003年、第一回全四国男声合唱フェスティバルの時だった。四国中の仲間を集めて巨大な富士山を舞台に現出させる夢がかなう、その思いを込めて私が書いたプログラム原稿について、とても気に入ったよ、とおっしゃっていただいたのだ。まさに天にも昇る心地だった。

男声合唱などまったく知らないまま大学のグリークラブに入団し知人の下宿の小さなラジカセで生まれて初めて「富士山」を耳にした。「麓には麓には」という歌い出しは富士山がまるで巨大な船のように傲然と雲を分けて動き始めたような壮大かつ荘厳なイメージを私の内に喚起させた。これが男声合唱か。既に「雪と花火」を歌っていたので、まったく両極にある音楽世界に触れて多田武彦という作曲家の凄さを心に刻み、それ以降も折々に得難い音楽体験をいただいた。

その多田先生が、わざわざ団に電話番号を問い合わせてまでご連絡を下さったのだ。思わず正座しながらお言葉をうかがった。先生は「まったくの無伴奏、ただ四声だけのハーモニーでこれほどの空間を描き出した男声合唱組曲は他に類を見ない」という部分がいたく気に入ったと大層ご機嫌だった。作曲家ご本人からお気に召したと言っていただける文章が書けたことが素直にうれしかった。

それからも何度か先生からお電話をいただいては様々なお話を拝聴した。日本伝統音楽や舞台芸術との関わり、作曲及び合唱についての基本的な考え方、クラシック業界の動向、本業のお仕事のことなど、興味深いお話がたくさん伺えた。私にとっては神のごとき存在なのだが、神には神の憂鬱があるのだろうか、長いお電話の中で時折、実力が伴わずに世に出ている人に対して語気を強めることがあった。音楽に対して真摯に向き合い情熱を傾けているからこそだろう。合唱にはうとい妻も次第に多田先生の名前を覚え、電話を取り次いだ後はそっとその場を離れて手間のかかる用事に取りかかるようになったものだ。

何より大きな思い出は2005年のこと。グリークラブ香川の団歌を作ろうという声が団員から上がり、創団以来の音楽顧問であった林雄一郎先生にいただいた言葉「響きあう心いつまでも」をコンセプトに団員有志の議論を元にして私が詩を書いた。多くの方のアドバイスを受けて推敲を重ねて完成したその詩を、本団の澤井会長が作曲について、当時ご指導をいただいていた北村協一先生に相談した。しばらくして「多田武彦先生に頼んでおいたから」とのお返事があり団員は驚喜、さっそく先生に正式に詩案を送った。

翌日、我が家の電話が鳴った。正座。既にモチーフを描かれていた先生は電話口で、三部構成で作曲したいので今すぐ中間部の詩を直すように、と私に迫られたのだった。長い時間をかけて練り上げてきたものだったし緊張もしていたので急にそう言われてもなかなかアイデアは閃かない。あぐねて先生のお力も借りながら言葉を電話口で絞り出し何とか最終案ができ上がった。

一週間後、完成楽譜とPCで作った音源が送られてきた。先生の筆跡で私の名前と詩が書かれているのを見て胸がいっぱいになった。この瞬間、私は世界の誰よりも幸せだった。

それから私は常にその楽譜を持ち歩き、車の中ではCDに焼いたPC音源をエンドレスで聞き続けた。通勤や出張などの空き時間もずっと音源を聞き音取りをし暗譜したので頭の中で常にこの曲が鳴り続けている状態だった。それでも、まったく飽きない。むしろ何度も涙がこみ上げてくる。今までこんな経験はなかった。本当に歌いたかった歌がここにある。こんな歌があったらいいのにと、ずっと願っていたその歌がここにある。多田武彦という創作者の天才と情熱を強く間近に感じられる希有な体験だった。

翌々週、合宿にお迎えした北村協一先生が曲想を施し指導をして下さってこの楽譜は本当の合唱になった。北村先生が「良い歌ができたじゃない」といつもの笑顔でこの曲を讃えてくれた。合宿の最後に締めくくりとして団歌を歌い始めた時、私の目から突然涙が吹き出した。どこをどう探してもこれ以上の幸せはない。私たちは今比類なき幸せに満たされているのだ。目の前で軽やかに指揮されている北村先生の姿が涙で滲み、仲間たちの歌う力強いハーモニーの中、私の鳴咽は止まらなかった。

後日、多田先生にお礼の電話を差し上げ心からの讃辞を述べさせていただいた。先生はそれをとてもうれしそうに聞いて下さった。詩がよかったから、という先生の声はまるで天上からの祝福のようだった。身に余る光栄。

他にも、じゃむか信州の「雨」オルゴールのことなど、多田先生にまつわっての話は枚挙にいとまがない。歌った歌も数知れず。何せ無伴奏男声四部で書かれていることが何よりありがたい。ピアノ伴奏を必要とせず自分たちだけで素晴らしい音楽を作れるのだから。多田先生がいたからこそ日本のアマチュア男声合唱団は自分たちの音楽世界を広げることができたのだろう。

昨年末その多田先生逝去の報に触れた。信じられない思いではあったが来るべき時が来た、とも感じた。いつかはとは思いながら現実のこととなるとやはり胸に大きな穴が空いたようだった。きっと男声合唱に関わった事のあるすべての人が氏の逝去を悼んでいることだろう、その人たちとこの思いを共有したい、そう思っていたのだが正式な追悼の声がどこからも上がらない。不審に感じていたところ、ご家族の許可が出るまで拡散しないようにしているとのこと。さればこそ。明けて二月ご逝去が正式に公表され、既に葬儀は近親者で済まされた由。

ただ、氏の生み出した歌を愛唱し直接お電話も何回か賜ったご縁がある者として自分の追悼の気持ちの持って行きようがない。それは今も宙に浮いたままだ。氏の葬送のために用意されている「雨」はいまだ私の唇を動かさず心の中で留まっている。

多分そのような思いをしている仲間が各地にあまたおられるだろうと思うのだが何らかの追悼の機会は設けられないだろうか。無論そのような人が現実に集まることを考えると乗り越えようのない困難ばかりが浮かんでくる。近親の方にもご迷惑をおかけすることにもなりかねない。私自身もそのようなことを望んでいるのではなく、氏の功績を偲び追悼の思いを多くの人たちとただ共有したいのが本意。

例えば、日時を決めて日本中で自分たちのいるそれぞれの場所で「雨」を歌う機会を設けることを提案してはいただけないだろうか。ネットの時代なので全国でタイミングを合わせる何か良い方法があるだろうと思う。大恩ある多田武彦先生の魂を送るために「雨」を歌う準備している人がこの空の下にあまたおり、誰かがそのタクトを振り上げてくれることを、そのハーモニーを奏でるべく息を吸う瞬間をみんな待っているはずだ。自分の思いを共有して下さる仲間、実際に聞こえなくても心を一つにして歌ってくれる仲間、私はそれを求めている。多田武彦先生たくさんの幸せをありがとうございました、どうぞ安らかに、その思いをともに虚空に放つために。(2018.2.16)

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