見出し画像

日本という国の始まり その7

知り合いには「阿波(徳島)から日本文化が発生した」と主張される方は多いのですが、日ユ同祖論を妄信する方も多いです。楽しく生きたいので、ディベートする気にもなれず、少し距離を置いております。

他にも、阿波神代文字なるものが絶対に存在したという方もおります。ここらは、よくわかりません。同様にスルーです。

問題になるのは、奈良遷都の時期です。
記紀的には、神武東征から奈良へ都が移ります。これが現在の常識として、定着しております。で、欠史八代の問題があります。二代綏靖天皇より九代開化天皇までの八代は、日本史において架空とされています。しかし、徳島県内を散策すると、痕跡がありますから、なんとも言い難いのです。

まず、神武天皇即位年の推定です。
過去多くの研究者が、即位年を試算しています。明治の学者の総意で決定されたのだと思いますが、紀元前660年(辛酉)は古事記などの歴代天皇の並びを考えると不自然です。初代神武天皇は在位75年で、第六代孝安天皇の在位たるや101年の長期に及びますし、第十一代垂仁天皇も99年です。

そこで、史実とされる、25代継体天皇もしくは33代の推古天皇から逆算してみました。細かい事は抜きにして、親子関係も無視し、純粋に数字だけを用いて統計的にどうなのかという推論で得られた結論は、神武天皇の即位年は、西暦300年をまたぐ頃となりました。

以下に2015年研究会にて説明した資料を掲載しておきます。
得られた数式は

y=7.2e^(0.0786X)
でした。その時のR^2は0.3464と相関については問題無いと思います。

結論的に292年~349年頃:10代在位平均値で、1~5代までが7.8年、6~15代までが8.4年、16~25代までが9.1年で合計214.6年。継体天皇の即位年が507年なので、引き算すると292.4年

継体天皇、10代平均の試算

同様な手法で推古天皇から試算したのは以下です


推古天皇より試算

これだと、神武即位年は349年となります。

天照大御神を卑弥呼(「年長大にして夫壻無く・・」で247年ないし248年没)とすれば、天照大御神没後50年から100年頃に神武天皇が即位したことになりますので、生物学的に言ってもそれほど大きな矛盾は無いと思われます。(天照大御神五世孫が神武天皇です。20歳ないし25歳で世継ぎを産むとすれば、50~100年は妥当)



そうそう、今回は、神武即位の話ではありません。
主題は天照大御神が海賊(海神、海部の民)の統領の子であったという事です。また、大國主神(大己貴命)が海部の統領の息子で、出雲(古代日本)の大王であったという話です。

しかしながら、史実だと裏付けの取れそうな・・つまり確たるエビデンスとなるものが無いので、ここらは妄想の範疇になるでしょうか。

徳島市国府町府中(こくふちょうこう)には大御和神社があります。
ご祭神は、大己貴命(大國主神)です。神紋は鍵です。

大御和神社

つまり、国庫を担当していた神、すなわち日本国をウシハク代表者であったということでしょう。平たくいえば権力者・大王です。大國主神が出雲(古代日本)の大王というのは皆が認めるところでしょう。後に、高天原との和平交渉で、シラス権能を譲り、以後、スメミマが最高権威者になり、二重構造で今に至るのは御存じの通りです。

で、問題は「阿波志」にあります。この書は蜂須賀公によって編纂され、徳島県内隅々の情報を集めて書かれたものです。寛政4年に着手し、文化12年に23年の歳月を要し佐野山陰が編纂完成したものです。

ここに、名東郡内の記述があります。祠の項、四番目に大御和神社について書かれた部分が以下です。

「阿波志」大御和神社

大御和神社は式内社であり、江戸時代も現在と同じ場所である国府町の府中(こう)にあったようです。
『大御和祠 延喜式亦爲小祀在府中村即大巳貴命今穪府中宮又穪印鑰或曰大寶二年國司始給鑰囙名非印鑰童子也隣村共祀其側有天照太神祠土人穪伯母宮』
と書かれてあります。

まるっとざっくり、特筆すべきところは、
「大御和神社の近くに天照大御神を祀った神社があるけれど、地元住民は『伯母ちゃんの宮』と呼んでいる」

大御和神社は大己貴命すなわち大國主神を祀っています。この近所といえば、西日本最大の矢野遺跡を挟んで気延山に坐す式内社・八倉比賣神社に違いないでしょう。で、ご祭神は大日霊の命(おおひるめ:天照大御神の別名)です。

天照大御神がオバサン?? えぇーー!
古事記によれば、須佐之男と天照大御神は姉弟。須佐之男の六世孫が大國主神。日本書紀、正伝によれば須佐之男の子神が大國主神とも。ならば、オバサンというのもあながち作り話でもないですね。

ところで、天孫降臨してきた邇邇芸命の子に山幸彦がいますが、この神の奥さんは、豊玉比賣です。古事記のストーリーからすると、海神の子です。多分海賊の統領の跡取り娘だったのでしょう。となると、天照大御神の出里の筋と考えられなくもありません。

魏志倭人伝には、卑弥呼の宗女の壹与という女王が13歳にて立って、日本に平和がもたらされたと記されています。

徳島市内に式内社・宅宮神社(1200年前には既にあったようです)があります。ここの夏祭の神踊りが、とても有名で、歴史は千年以上といわれます。古いだけに、見てても飽き飽きするほど動きが鈍くて単調で退屈な踊りです。賑わしいのは蝉の声だけです。(^^ゞ

その中に出雲踊りがあります。
阿波古代史研究家なら、知って知って知り抜いている、歌詞が・・
「出雲の国のおばごの惣領、今年十三ならしましょ、小口は一時とをたしなむ」
え、どういう意味でしょう??県外の方にはわからんでしょうか?


宅宮神社の神踊り

でも、魏志倭人伝を読んだことのある人なら、ピンとくるはずですね。


余話)
阿波古代史研究家の多くは、気延山こそ高千穂の峰だと主張しています。
古事記によれば、山幸彦(彦火火出見命、日子穂々手見命)は高千穂の山の西に葬られているとあります。気延山の西には、曽我氏神社がありまして、彦火火出見命をお祀りしております。



曽我氏神社ご由緒

(木花之佐久夜毘売は、邇邇芸命の后で彦火火出見命の母神)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?