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日本という国の始まり その5

この場所では、まとまった物をきちんと整理して書き残しておこうとおもっていたのですが、いざ書き始めると、ストーリー性の無い・的の絞れていないグダグダ記事になっています。以前から書いているブログの反省から、一点突破と思っていたのですが、あまりにブログ(従客閑雅)が閑古鳥なので、色気を出したのがいけません。YouTube(rakujin tousou)も同じで、単車・ツーリング関連に特化しようと思いながらも、木工を追加し、県内お出かけを追加し、日々の事まで載せてしまいました。極めつけは阿波古代史を追加したため、それまでの視聴者離れを起こしてしまったようで、目標のチャンネル登録者千人の達成が危ぶまれています。しかしながら、肩ひじ張らず、緩やかにやってゆこうとも思います。

阿波古事記の活動や講演は、タクドラの金太郎さんこと野田千一さん(阿波古事記研究会広報部長)にお任せして、私は他のネタを振っておれば良かったのですが、ついつい登録者を増やそうとし、今に至っています。

ひとつは成功体験が悪さをしているように思います。かつてウェブが広まりかけた頃、地元紙に取り上げられたり、Yahooのディレクトリ検索で部門トップであった事があります。それがあって、舐めてかかっておりました。世の中、凄い人は沢山おいでるようです。

(この記事は、徳島がそうだ!と強く主張したいのではありません。あくまで日本文化、史実、人類史上稀にみる貴重な民族性を大切にしようと言いたいのです。)


幕末の徳島藩士、国学者、科学者、歴史学者・池辺真榛先生については前の記事で書きました。まるっと云えば、先生は「現在の日本文化は徳島から発生したのだ」と主張されています。これが、徳島在住の私であっても、過去トンデモ説、噴飯説と一笑しておりましたので、他府県の方や歴史に知見の無い方は噴飯説以前の問題であろうかと思います。本居宣長先生のレベルでも、徳島は何かあると思いつつ、それで一生終わっているので、真理探究心の無い学者さんでは無理なからぬことかと思います。

また、歴史に詳しい方でも、徳島説(説ではなく史実ですが)だけは跨いで通っておりますが、一因を作っているのは、『日ユ同祖論』です。真偽はわかりませんが、古代文字もそうかもしれません。ユダヤの神殿とか卑弥呼の墓などの物証は、ある程度年代測定できるのでエビデンス足りえていないようです。それでも信じている方々がいて、大声を上げているのも、敬遠の遠因になっています。

なので、淡々と事実、史実を積み上げて阿波国の歴史を深堀してゆくのが一番の早道だと信じております。が、講演でもしばしばガリレオを引用して、「真理は多数決で決まる」と言っておりますように、大衆が認めれば教皇も認めざるを得ず、教皇が認めれば真実・定理・常識としてこの世に定着するのも純然たる事実です。

よって、卑弥呼だ邪馬台国だ、ソロモンの秘宝だ、鉄の橋だとバカ騒ぎしている方々も無視できないのかもしれません。



前置きが長くなりすぎました。
中国には正史と認められた歴史書が現在24書あります。よって正史は二十四史とも言われます。その中で日本の歴史にとって特に有名な魏志倭人伝は、「三国志」の中の魏書にあります。西晋の官僚でもあった陳寿が、三世紀の末に書き残しました。素人の方にも、卑弥呼とか邪馬壹国は有名で、知れ渡っています。また、マニアの中に浸透している記述としてには「その山丹あり」でしょうか。女王国には水銀辰砂の鉱山があるという箇所です。三世紀の辰砂鉱山は加茂谷にしか無いというのは考古学者なら周知のことです。また近年、その鉱山遺跡の近所には、日本史上最古最大と評される工場群が見つかっております。その遺跡の対岸からは、推定7000年から8000年前の遺跡も出土しております。

さて、今回は少しマイナーな記述を考察しましょう。
それは、女王国が一夫多妻制であったことが書かれている点です。

下戸でも二三婦

上は、南宋紹熙本の魏志倭人伝ですが、この中頃に「位の高い人は、四人から五人の奥さんがいる、位の低い人でも二人から三人の奥さんがいる」ということが風俗として書かれています。一夫多妻制であったことが分かります。

これは、しっかりしたエビデンスがあるわけでもなく、私の妄想と思ってくれても結構ですが、何故かを推論してみました。

そもそも、徳島県は、世界でも類を見ないほど変化に富んだ海域に囲まれています。水産関係者には有名な話です。海域は、瀬戸内海、紀伊水道、太平洋です。しかも、流下量がとても大きな河川があります(山間部は日本有数の多雨地帯です)。よって、汽水域も広がりやすいのです。これは、稚魚生育に好条件です。また、徳島県の前の太平洋はとても深く、深海では低水温で、北海道のような冷水域のカニもいます。以上の事より、生息する魚類・水産資源はバラエティーです。これにより、漁業が否応に発達したエリアだと言えます。伝承やエビデンスの取れる近現代漁業史では、頭一つ抜けていたことが書かれております。(機会があれば、阿波の漁業史を紹介したいと思います)

漁業の発達による影響としては、中世では水軍の強大さ・優秀さが挙げられます。古代史においては文字資料が無いものの、推測できる事は、操船技術や航海術が高度に発達していた、つまり海洋文明が高度に発達していたということです。


勝浦地名(千葉と和歌山と徳島は勝浦サミットをしています)

断片的ではありますが、徳島県内の地名は全国で散見されます。(伝承として残っているエリアも多いのです)勝浦(桂・勝占)に限らず、長(那賀・那珂・仲・中)もそうです。これが意味するところは、古代からODA・開拓団で徳島の若者が日本のあちこちに出ていっていたという事です。共通する地名を追うと、これだけ若者(おそらく独身男性)が流出して、徳島県内に人が残っていたのか?とさえ思います。

千葉一之宮・安房神社のご由緒

勝浦だけではなく、「なか」もそうです。

ナカ・カツウラ・アワ・イ

以前研究会において講義した折、人口構成から推論してみましたので、そのスライドを掲載しておきます。

下戸でも二・三婦

毎年、徳島文化圏から3000人の若者が海外流出していたことになります。当時の人口を考えると、この数は地域社会の安定という点では無視できません。このようであれば、女性が嫉妬しないことを前提に一夫多妻制でなければ社会は安定しません。

事実、魏志倭人伝には、徳島文化圏の女性は嫉妬しないし、淫乱では無いと、異民族評価に厳しい中国人が絶賛してくれています。

淫ならず、妬忌せず

何故、徳島の神が大宜都比売で女性なのかを考えた時、食糧神として女性を称えた文化があったと同時に、女性をたてていた社会が想像されます。また、女性がしっかり者で働き者であったことも容易に想像できます。余談ではありますが、伊勢の外宮の神は、豊受大神ですが、大宜都比売の事でもあります。その伊勢神道の根本経典には外宮神官の渡会家は徳島出身であることが明記されております。

二柱座是也

「天村雲命 伊勢大神主の上祖なり。上皇産霊神(神産巣日神)の六世孫なり。阿波国麻殖郡に座す忌部神社・天村雲神社二柱座是なり。」とあります。

ローマは一日にして成らずという格言を何度も聞きました。
しきたりや文化は昨日今日に出来るものでもなく、県民性や国民性も同じであります。では、現在を見てみましょう。現在の卑弥呼が見えてこないでしょうか?

下は全国の女性社長率のランキングです。

出典)帝国データバンク2022年

適当な資料が見つかりませんでしたので、昨年資料を引用しましたが、昨年2022年では沖縄と同率一位です。数年前は徳島がずっと単独一位でした。

マップを見ると、田舎ほど率が高いという感じもしますが、男尊女卑でなかったよき伝統が残っているとも取れます。逆に、悪しき西洋倫理が持ち込まれた大都市が女性の地位を下げているとも考えられます。

男女の関係だけを見ても、マスコミに洗脳され、ほんとうの日本史を知らないことに気付いてくれれば幸いです。西洋かぶれのLGBT法案は日本には馴染まないのです。



付録)
男女の関係は古事記を読む限り、対等であり、補完の生き物として協力的な位置づけがされています。実際のところ、平安の通い婚の頃は、女性の親の地位により、格が左右されていた事もあります。日本の歴史を俯瞰して、いつから男尊女卑になったのかを考えると、どうやら明治維新からだと思われます。やはり、女性を一段低い生き物だと考えるのは西洋の影響でしょう。それは、キリスト教史観によるものだと思います。アダムとイブの関係では、アダムのあばら骨という部品からイブという生体が誕生しています。つまり、女性は男性の一部品にしか過ぎないのです。
よって、贖罪の意識からレディーファーストなのでしょう。日本には女性を蔑視しろとか、ことの他庇護せよというような思想もありません。あくまで生き物として対等なのです。ただ、古代の税制においては、女性は無税の部分があります、それは、女性が子供を産み育てることへの配慮、ハンディとしてそうなっていたのだと想像します。

丁について


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