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火星の窓

 12月24日。地球は特別な日だろうな、とロヴァは思った。地球にまだ暦があるかはわからないけれど。
 いつも通りの、固形食を食べる。こちらはまだまだ、切れそうにない。
 窓のない部屋。船の真ん中の食堂には、彼女しかいない。咀嚼音が続く。誰も入ってこない。
 この船には、生きた人間は彼女しかいないのだ。
「ジングルベルージングルベルー……この音、合ってるのかな?」
 独り言のリズムすら、怪しくなっていた。ただ、誰もそれを指摘することはできない。

 火星に深く沈んだ、宇宙船。ロヴァは三年間、そこに住んでいた。
 政府の移民船の順番を待ちきれなかった人々は、自ら調達した船で地球を脱出しようとした。離陸時に爆発するもの。大気圏を抜けきれず落ちてきたもの。月までも届かない距離で壊れてしまったもの。そして、火星に衝突してしまったもの。
 とても多くの人々が、死んだ。もちろん、地球でも多くの人々が死んでいた。
 ロヴァは、生き残ってしまった。船の中で、たった一人。
「ラークリマースー、フフフフーン」
 窓のある部屋で、窓を見る。ただ、真っ黒な闇があるだけだが、それでも、外の世界であることには変わりがない。ぼんやりと眺めることが、多かった。
「あと、三ヶ月か」
 ロヴァは、深いため息をついた。食料はある。ただ、空気がなくなる。酸素を作り出すための薬剤が切れる。
 船の前半分は、押しつぶされてしまった。それでも後ろ半分の人々が生き残れるように設計されていたが、たまたまそちらにいたのが彼女一人だったのだ。前半分は墓地となった。
 死が近づいてくる。ロヴァはたまにそのことを考えるものの、どうしても深いところの答えにたどり着けなかった。悪化していく地球環境の中で、死は身近に感じられるものだった。たまたま三年死なずに済んだ。ただ、それだけのことだと思えてしまうのだ。

 地球最後のクリスマスイヴは、雪だった。有害物質を含んだ雪を浴びたくない人々は、ほとんど外出しなかった。ロヴァは、窓の外に懐中電灯を照らしていた。闇の中に浮かぶ白いつぶつぶを見て、きれいだ、と思った。
 早く寝なさい、と母親が言った。サンタさんが来てくれないから。ロヴァははーい、と答えて、布団をかぶった。ただ、彼女の瞳は閉じていなかった。こんな雪の日に、サンタさんは大丈夫なんだろうか。サンタさんだから大丈夫か。
 しばらくすると、部屋の中に人が入ってきた。寝たふりをしたまま、彼女は、その人のことを感じ取っていた。

「なんで」
 ロヴァは、少し息を多めに吐きながら言った。三年ぶりに、誰かに向かって言葉を発した。
 気配を感じて振り向いた先には、白髪で長いひげの、老人が立っていたのである。
「久しぶりだね、ロヴァ」
 老人は深々とお辞儀をした。
「久しぶりって……やっぱりあの時の」
「さすがにこんなところは初めてでね、来るのに三年かかってしまったよ」
 老人は、背負っていた大きな袋を床に下ろした。
「私、もう子供じゃないかも」
「そうかな? いや、細かいことはいいじゃないか。僕もね、つい懐かしくて、堂々と出てきてしまったよ」
 老人は袋から、ガラスの板を取り出した。丸くて、どこまでも透明なガラスの板。
「なに、それ」
「君へのプレゼントさ。朝だよ」
「朝?」
 老人は窓に歩み寄って、そのガラスの板をくっつけた。ガラスの板はぴったりとはまって、光った。その向こうには、木々や、池や、小鳥が見えた。
「朝が見える。久しぶりだろう」
「ずっと朝なの?」
「君が望めば、夜になる」
 ロヴァは、窓の外を眺めた。それは、いつかどこかで見た、地球の朝だった。
「きれいだけど、悲しい。嘘の朝なんでしょ」
「僕のプレゼントは、夢だからね。嘘のことだって、汚いことだってあるよ」
「うん、ありがとう。私、きっと嘘が欲しかったんだね」
 振り返った時には、もう誰も、いなかった。

 地球では、新年を迎える頃。宇宙船の窓のある部屋。窓ガラスに両手をついている、人影。
 あの日からロヴァは、ずっと窓の外を見ていた。途切れずにずっと、朝だった。雨が降り、落ち葉が舞い、リスがやってきて、雪が降り。様々な朝だった。飽きることのない朝の光景を、彼女は見続けた。何も食べず、眠ることもなく。

 そして、宇宙船の後ろ半分は、彼女の墓地となったのである。
 

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