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【物語と哲学 2】『マルドゥック・スクランブル』「道具的な私」

 ほとんどの「物語」には、「意図」があります。作者が何かを伝えたいという意図、そして作者が問いを共有したいという意図。意図やテーマを把握し、自分なりに考えることは、「哲学的思考」の最初の一歩になると思います。

 ここでは、物語を題材に、哲学的思考の練習をしてみたいと思います。作品を取り扱う以上、≪ネタばれ注意≫ということになります。

 第2回は『マルドゥック・スクランブル』を取り上げます。

テーマ 道具的な私

作品紹介
『マルドゥック・スクランブル』2003年、冲方丁、ハヤカワ文庫。圧縮」「燃焼」「排気」の三部作。第24回日本SF大賞を受賞し、映画化・漫画化された。
 賭博師シェルは、少女たちを殺して指輪にしていた。バロットは瀕死の状態で救われ、電子干渉能力を備えた状態で蘇生する。彼女はネズミ型万能兵器のウフコックを相棒とし、自らの有用性を証明するためシェルの犯罪を追うことになる。

再生

「現在、君の体表面の九八%は人工皮膚(ライタイト)で覆われている。』他人から提供された皮膚組織を使用していないものを、そう言うんだ。本来の人間の皮膚ではない、何か――」
 ドクターが言葉を区切った。バロットが小首を傾げると、ドクターは、ここが大事なポイントだとでもいうように指を立て、言った。
「代謝性の金属繊維――それが、今の君の体表面を構成している物質だ。もとは宇宙空間を体感的に把握するために開発されたものを、人体に直接移植する技術さ」(中略)「君は今や、あらゆる電子機器に対する、生きた遠隔操作機械(リモートコントローラー)というわけ」(『圧縮』pp.52-3)

 バロットは突然死の危機に襲われます。何とか助けられたものの、全く知らない技術によって、以前とは異なる状態になってしまいます。その技術は多くの新しい可能性をもたらすものの、有用性を証明しなければ存在が許されないものでもあります。
 バロットは一切そんなことを望んでいませんでした。またその技術を与えた側も、彼女にそれを与えたいと思っていたわけではありません。誰の意図でもなく、皆がその状況に「投げ込まれた」のです。
 彼女はもともと、多くのものを失っている少女です。そんな彼女が、生きるために突然目的を与えられます。全く自ら選んでいない目的によって、「道具的な私」の有用性を証明しなければならなくなったのです。

濫用

――死にたくない。
 その思いが血まみれの銃に伝わり、弾丸となって撃ち放たれるたびに、悲しい気持ちが、どうしようもなくこみあげてきた。
――ごめんなさい、ウフコック。ごめんなさい。
 今なら濫用という言葉の意味がバロットにもわかった。自分はウフコックを濫用した。自分がウフコックを、危険な道具にしてしまったのだ。(『燃焼』p.9)

 彼女の相棒であるウフコックもまた、道具的存在です。ネズミであり武器である彼を使いこなせるようになったある日、バロットは彼を「濫用」してしまいます。バロットは戦いの中で暴力の魅惑にとりつかれ、自らの欲求のままに、魂を持つウフコックを道具として使い続けてしまったのです。
 そこから二人は、個と個として向き合うため、和解の道を探求していきます。二人とも、自らの有用性を証明しなくてはならない存在です。道具であることから、逃れられないのです。しかし、自らを道具として認めることと、相手を道具として扱うことは別なのです。バロットの成長は、ウフコックとの適切な距離を探る中で描かれていきます。

目的としての存在

 カントは、どのような理性的存在者も、単なる手段ではなく目的自体として存在する、と主張しました。(カント著 篠田英雄訳『道徳形而上学原論』1976年 岩波文庫 p.101) 他者を単なる手段として扱ってはならないのです。人間は自らの存在意義を求めるあまり、他者もまた自立した個人であることを忘れてしまうことがあります。
 物語が進み、バロットはカジノにおいて、ウフコックに一方的に頼ることをやめました。「使用者-道具」以上の、自立した個人同士としての関係性を模索しているのでしょうか。人間にとって「私の存在意義」と「誰かのための自分」はどのような関係にあるのでしょうか。


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