【物語と哲学 4】「ミセス・ダウト」
ほとんどの「物語」には、「意図」があります。作者が何かを伝えたいという意図、そして作者が問いを共有したいという意図。意図やテーマを把握し、自分なりに考えることは、「哲学的思考」の最初の一歩になると思います。
ここでは、物語を題材に、哲学的思考の練習をしてみたいと思います。作品を取り扱う以上、≪ネタばれ注意≫ということになります。
第4回は映画『ミセス・ダウト』を取り上げます。
テーマ 演じる「私」について
作品紹介
1993年、クリス・コロンバス監督。ロビン・ウィリアムズ主演。
失業したダニエルは、妻のミランダから離婚の意志を告げられ、養育権を失ってしまう。子供に会いたいダニエルは、女装して家政婦「ミセス・ダウトファイヤー」として家に戻ってくる。しかし彼にはもともと、家事能力が無かったため、悪戦苦闘する。
それぞれの私
主人公ダニエルは、物語の最初で声優の仕事をクビになってしまいます。子供向けアニメに喫煙シーンはよくないということで、勝手なアドリブを入れてしまうのです。その後子供たちと合流したダニエルは、とても慕われています。自宅でパーティーを開くということで、なんと移動動物園を呼んで、ガンガン踊りまくるのです。
近所迷惑になるということで警察に通報され、妻のミランダが呼び出されます。二人は口論になるのですが、ダニエルには「愛し合っているから何とかなる」という思いがあったようです。その一方でミランダにはその思いももはやないようで、仕事も家事も自分ばかりが負担して、トラブルを起こす夫にうんざりしていたのです。
ダニエルは子供たちにとっては「よい父親」でしたが、妻にとっては「悪い夫」でした。家の中では「家計を支える人」でも「家事をこなす人」でもなく、妻に愛されてもいないのです。本人はそのことに気づいていないようでしたが、夫婦関係を続けていくのは非常に難しい状況になっています。
変身する私
離婚して、子供たちと離れて暮らすことになったダニエル。子供たちとはたまにしか会えず、失業中でもともと家事もできないため普通に暮らしていくだけでも大変です。仕事の方は何とか紹介してもらいますが、「父親」という役割を果たせず、孤独に生きていくのは大変つらそうです。
子供たちも大好きな父親と会えず、つまらなそうです。ミランダも家のことを全てしなければならなくなり、意を決して家政婦を雇うことになります。そのことを知ったダニエルは、とんでもない行動に出ます。特殊メイクをして年配の女性となり、「ミセス・ダウトファイア」として雇われるのです。
完全なる変身ですが、中身はダニエル。もともと父親としての役割は果たせていたので、子供たちとは打ち解けることになります。しかし、家事の能力はもちろんないままです。最初は失敗をしても何とかごまかしていたのですが、子供たちとどうしてもいたいという思いから家事ができるようにと努力します。
別人になりきる、という極端な行動が、ダニエル自身を変えていきます。ミセス・ダウトファイヤでない時も、身に着けた家事能力はなくなりません。ついには父親として、自宅を訪れた子供たちに料理をふるまえるまでになるのです。
合流する私
ダニエルは偶然放送局のランディ社長に気に入られ、テレビの仕事を手に入れる運びとなります。しかしレストランの待ち合わせ時間に、ミセス・ダウトとしても家族とミランダの新しい恋人と食事に行かなくてはならなくなってしまいました。ダニエルはどちらも参加するため、レストランのトイレで変身を繰り返します。
しかしやはり、完全な変身には無理がありました。酔っぱらったダニエルは、ランディ社長のところにミセス・ダウトとして現れてしまいます。自分がミセス・ダウトの格好であることに気づいていないダニエルは、ダニエルとしてランディに話しかけてしまいます。結局家族にもミセス・ダウトに変身していたことがばれ、積み上げてきた信頼関係がなくなってしまうのです。
ダニエルは、家族にもランディにも「ダニエル=ミセス・ダウト」として認識されるようになってしまいました。どれだけ演じわけても、他の人にとっては同じ一人の人間なのです。しかしそんなダニエルにとって幸運だったのは、ミセス・ダウトを演じることにより、ダニエル自身も変わっていた、ということです。ランディはダニエルを「ミセス・ダウトとして」雇うことにしました。面白いおばあちゃんとして、ミセス・ダウトは人気になっていきます。
それでは、父親として、夫としてのダニエルはどうなったのでしょうか。ミセス・ダウトを解雇したものの、次の良い家政婦はなかなか見つかりません。そして物語のエンディングで、ダニエルは戻ってきます。子供たちの面倒を見ることになったダニエルですが、ミランダの夫に戻ったわけではありません。夫婦でないからこそ二人は今後助け合っていけるのではないか、私はそんな印象を受けるラストシーンでした。
演じる私
ダニエルほど完全でなくても、私たちは様々な役割において、「私」を演じています。時には「本当の私はこんなんじゃない」と感じることもあるでしょう。しかし演じている私も私の一部であり、私の本質に影響を与えているはずです。
ダニエルが良い方向に変わっていったように、私たちも「何を演じるか」「どう演じるか」によって、自分をよい方向に変えていけるのかもしれません。けれども、ダニエルとは違い、ずっと演じることを求められたり、決して良い変化をもたらさない演じ方ばかり求められることもあるでしょう。
一人の人間にはいくつもの顔があり、いくつもの役割があります。場面によって変わる私は、見る人によっては「異なる私」ともなります。自分自身でもどこまで演じているのかわからなくなり、「自分を見失う」こともあるかと思います。「私とは何か」を考えるとき、「演じている私」は決して「嘘の私」として切り離せるものではないでしょう。
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