【ロマン主義と近代小説の誕生について】

【ロマン主義】

 産業革命やフランス革命などの市民革命によって市民階級が台頭し、18世紀後半から19世紀かけて起こった芸術運動が「ロマン主義」である。ルネサンス以来のギリシア・ローマの文学的伝統である古典主義から脱却し、自国の文化や個人の感情に重きを置き、想像力を駆使した自由な感性による表現の追求を行った。

 イギリスでは、豊かな経済的な安定からグランド・ツアーが盛んになり、その芸術体験をもとに「崇高」や「ピクチャレス」という新しい美意識が生まれた。そして、ウォルポール『オトラントの城』やベックフォード『ヴァテック』といった幻想的な「ゴシック・ロマンス」作品が生まれた。ワーズワースとコウルリッジは詩集『抒情歌謡集』を出版し、それがイギリスにおけるロマン主義の出発点となった。

 ドイツでは、理性に対する感情の優位性を唱えた「シュトゥルム・ウント・ドラング」運動が起こり、個人の感性を追求する文学潮流が生まれた。初期のゲーテ作品がその代表で、『若きヴェルタ―の悩み』の流行は社会現象ともなった。その後、雑誌『アテーネウム』を刊行したシュレーゲルや『夜の賛歌』のノヴァーリスによって、神秘的な主題の文学へとつながっていった。

 フランスでは、ルソーが書簡体小説『新エロイーズ』を発表し、ロマン主義の下地を作った。スタール夫人は、訪独での経験から『ドイツ論』を発表し、文学に個性的、独創的な感性やロマンティックな感情を取り入れる必要性を説き、ロマン主義への道を切り開いた。

 音楽でも、教会や宮廷にかわって個人の心というものが音楽の主役になっていくなど、ロマン主義は様々な芸術に影響し、単なる感受性の変化から、思想へと発展して行った。

【近代小説の成立】

  18世紀以降、イギリスやフランスなどでは中産階級が台頭し、裕福な読者層に支えられ小説文化が発展した。フランスでは、ラクロの書簡体小説『危険な関係』の後、実際に起こった事件から想を得た『赤と黒』のスタンダールや『人間喜劇』のバルザックなどにより、ロマン主義から写実主義へ移行し、フローベールの『ボヴァリー夫人』を持って、近代小説が完成していく。

 イギリスでは、女流作家が台頭し、ラドクリフや『フランケンシュタイン』のシェリー、また、内面を鋭く描いた『エマ』のオースティンが名を連ねる。19世紀に入ると、ブロンテ姉妹の『ジェイン・エア』や『嵐が丘』などのロマン主義作品から、都市を描いた作家ディケンズなどの「リアリズム」へと移行していった。

 アメリカでは、虚構の美の追求によって、後の多くの作家に影響を与えた『アッシャー家の崩壊』のポーや、『緋文字』のホーソーンが現れた。また、メルヴィルは『白鯨』にて他者を描いたことが特徴的である。

 ロシアでは、ロシア語による書き言葉を確立したプーシキンが登場する。『狂人日記』などのゴーゴリやレールモントフがそれに続いた。そして、余計者という概念を生んだツルゲーネフ、『罪と罰』のドストエフスキー、『戦争と平和』のトルストイを持って、ロシア文学は黄金期を迎える。二葉亭四迷はツルゲーネフを愛好し、日本の近代小説の成立に影響を与えている。

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