「意思決定」について。

人間というものは「意思決定」が苦手である、と思っている。意思決定ってものはエネルギーを要し、個人個人にもたらす疲労は激しく、いつも頻繁に行い続ける、というのはなかなか厳しい。それが続けば人は消耗し、失敗も増え、気持ちも萎え、体だって壊しかねない。だから、実は知恵の働く人ほど、日常の多くのことに関して、ルーチンワーク化して、意思決定を挟まずに、頭を使うことなく繰り返し行えるように工夫して行っている。昔、ルーチンワークとは、工場の流れ作業的なイメージから、マイナスの印象で語られることが多かったが、例えば、スポーツ選手などが結果を出す為にルーチンを採用することなど、良いイメージも増えてきた。それに、まるで工場の流れ作業が悪いみたいだが、生産性の点で有益だから行っているのであり、結果の側面から見れば悪いとも言えない。それが一番バックが大きいから採用しているってだけだ。

時に、他人は誰かに対し、何も考えずに行動(同じことの繰り返しを)していることを批判的に言うが、日常生活の中で、何も考えずに行動できることを配して置くことは有用なことで、要は、何も考えずに行動することの内容が、有益か、無益か、オカシクないか、などのことに目を向けるべきなのだろうと思う。良いルーチンを持つものは、何か結果を残すのに多大なエネルギーを払うことなく、一言で言うなら、強い。・・・などと分かっても、さーて、これには知恵が必要で、良いルーチンを得るなんてことを決めることこそ怠惰に鞭打ってエネルギーを注がねばならず、ハードルが高い気がする。良い方法としては、誰かに付いて行くことだろう。誰か、信頼できる人のリーダーシップに任せる、って方法だ。それを誰にするかを失敗しなければ、その後の長期的な効果は期待できる。まあ、幸福とか、成功とか、穏やかさとか、そんな感じのものに対して。

実は、ここまで書き始めて長いが、そんな話がしたかった訳ではなく、新型コロナ禍の生活とは、それまでの暮らしと比べて、人に「意思決定」を迫る場面が増えた生活になったと思っている。上記した中で、人が苦手とした意思決定ってやつ。だから、人々は普通に当たり前に生きて行くだけで、倍エネルギーを要し、倍疲れ、正直、辛い。なぜ辛いかも分からないまま、本当、生きていくのが辛く感じるようになったと思っている。自分も含め。何があったというわけでもないし、ニュースで受け取った悲劇ほどの悲劇にも見舞われなくっても、いや、むしろ、分かりやすい悲劇がない人ほど、訳のわからない疲弊に苦しむ。そんな風に、僕の目には見えている。また、自分を振り返り、そんな中に自分がいるような気がしている。

今、何をするにも、何をしないのにも、「意思決定」を迫ってくる世界に私達は生きている。少し前には、何も考えなくっても良かったことに、現在では、さあ君はどう思う?って判断を迫ってくる。プレッシャー。それが続いたので、現在、ちょっともう疲れてきた。はぁ。ため息。なんか、自分は何? 自分は誰?って感じになってくる。正直、考えるのも面倒。返事返すのも面倒だから、時々自分の殻に籠もったりしてね。

だが、だから、このままではヤバいから、ヤバいかどうかも分からないが、ちょっと危機感を感じるなら、やっぱりどこかで重い腰を上げて、大きく、どっこいしょって、重い意思決定をしなければならない、と僕は思っている。新型コロナがおさまったら、などと言っていたら、自分に貯金されてきた訳の分からない疲労が満期になり、一気に自分に返ってきそうではないか。利子までつけて。いや、分からない。これは勝手に想像で語っている。だが、こう言われて、ああ、って思う人はいそうだと思っている。いや、自分が、そういう形で追い詰められている気がしているのだ。錯覚か、正しい認識かも分からないまま。

ただ、まあ、怠惰をぶっとばさなきゃね。優柔不断の自分が、あなたが、そんな日々いつも「意思決定」をしなきゃって、本当重い。どっかで、どっかで、知恵を使って、工夫して、打開しなきゃって思うよ。だから、良いタイミングで、今だ!って時に、良いルーチンを日常に入れていく大きな具体的な変化を考えなきゃいけない。2022年4月、そんなことを思いながら、こんな文章を書いてみた。

楽園王 長堀博士


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