背中を押される、について。

誰かに(何か出来事に)背中を押される、ってことは人生で何回か、1回くらいはあるに違いない。あるいは、もっとたくさん? 良い出会いに、人との出会いばかりではない、本や映画や舞台に、誰かのアドバイスに、向こうはアドバイスだなんて思ってなくっても何気ない一言がそうなる場合もある。私達は時に、そうやって背中を押され、今まで踏み出せなかった一歩を前に進めたりする。でもそれは、言わずもがな、錯覚に過ぎない。実際に本当に背中を押されている訳ではない。その出会いに、何かピンときて、琴線に触れて、きっとそうだという思いが、幻の背中を押す手になる。つまり、別の言い方をするなら、それは実は自分の選択で、自分の意志であり、自分自身で決定しているのだ。きっと、自分の側の背中を押す手への受け入れ準備も関係しているだろう。タイミングが違えば、ある時背中を押した手には気づかず、私達はその一歩を踏み出せていない。自分なのだと思う。自分。実は、すべてが。

きっと、これは想像だが、この2年のコロナ禍の暮らしとは、背中を押す手のない暮らしだったに違いない。今は、諦める時期、大人しくしている時期、コロナ以前の生活に戻ったら、背中を押す手が見えてきたなら、私は又次に進める。そして、待っている。待ったま、予測よりも長く時間が経ってしまった。そんな感じ。ちょっとまだ先は見えない。でも、ちょっともう限界だし、出口も探したいなぁ、そんな気にもなったり、ならなかったり。

だが、上段で話したように、今前に踏み出せないのは、本当は「自分の側の背中を押す手への受け入れ準備」の問題なのかもしれない。世界の側が、自分の環境の側が、もう昔のような背中を押す手は準備はしてくれないかもしれない。この中で、今ある状況で、自分の側が何かを更新しなくてはいけないのかもしれない。いや、断定はできないけど、そんな可能性にも、自分の想像力を割いておきたいと思った。

よく話す話だが、この世の中、向こうから勝手にやってくると思い込んでいるモノの中には、自分で取りに行かないと手に入らないモノが多い。ちょっとした勘違いで、ずっと待ち続けているが、待っていただけでは何も変わらないコトは少なくない。幸福とか、そんなことに関係したモノに、自分で取りに行かないと手に入らないモノが多いと私は思ってもいる。待っているだけで、いつまで経っても何も変わらず、イライラだけが積もる。待っている長さに、何かを諦めることがあるかもしれない。

それは、自分で取りに行かないと、は、実は、背中を押す手の話ではないだろうか? 今、例えばコロナ禍、背中を押す手がないのではなく、それは自分の問題で、自分がそれに気づかない、気づくための準備が整っていない、そういう問題なのではないか。だから、自分の側が、重い腰を上げて、準備をしてみる。何か、知見を広げてみたり、勉強してみたり。それは、向こうからやってくると勘違いしているけど、実は自分で取りに行かないと手に入らない何かを手に入れる、そういう準備なのだと私は思う。そうすると、あっ、背中を押された、が、どこかに見えてくるのはないか。

失敗してもいいから、動かないと、そう思っている。実際、失敗なんてことは、ない。動いちゃえば、まず動いたことが大きな成果だ。世界の側が変わってないのに、自分が変わることで、見える景色は見違えるに違いない。そうなったら、それだけで大きな成果だ。

背中を押される、についての話で
した。

長堀博士


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