見出し画像

痛みも消えるが記憶も消える、よく出来たループじゃないか

手術翌日。痛み止めの影響で朦朧としていた。

点滴、カテーテル、麻酔、体のいたるところを管でつながれたうえ、仰向けのまま姿勢も固定されている。背中が凍土のように固まっていた。

両方の手にはNintendo Switchのジョイコンのようなものをそれぞれ握らされている。おそらくどちらか片方が、ナースコールのスイッチなのだろう。

そんなの見ればわかるではないかと思われるかもしれないが、身体が動かず、上体を起こして手元を見ることもできない。

したがってどちらかを押して、その結果から自分が何を押したのかを判断しなくてはならなかった。俺は自分が握っているものの正体がわかるまでに丸一日を費やした。

そして、それにより、俺は記憶が消されるループに閉じ込められていた。

その事実に気づいたのは、手術後に目覚め、ぼんやりとした視界の向こうから「どうされました?」と看護師さんらしき姿を認めたときである。どうされたと言われても、俺は何を返答したら良いのか。しばし考えているうちに、意識が途絶えた。

目が覚める。看護師さんが「どうされました?」とやってくる。デジャブか。いや、確かにさっきも言われた気がする。口ぶりからしてどうやら俺が呼んだようなのだが記憶はない。そんなようなことを何度か繰り返して、徐々にだが、自分が先ほどからナースコールを押してしまっているらしいことがわかってくる。だが、いざ看護師さんが到着されると、その記憶を失われている。これは一体、どういうことだろうか。

喉が渇いている。となると、俺は、もしかしたら、水が欲しかったのかもしれない。だとすれば、本当に申し訳ないが、背に腹は変えられず、再びコールをしなくてはならない。

ここで、困ったことに気づく。
一体、俺は先ほど、どっちのボタンを押したのだろうか。
右、左、どちらかがナースコールであることは確実だ。だがもう片方は、残念ながらその時点では何なのかすらわかっていなかった。

のちにその正体は痛み止めを追加するスイッチと判明する。
押すと点滴から直接、麻酔が投与される仕組みだ。そして、こいつは即効性があり押すと確かに痛みは薄れるのだが、意識作用も強く、今し方自分が何をしようとしていたのかすら覚束なくなるのだ。つまり先ほどからループを発生させているのは、この痛み止めスイッチなのだが、それを当時の俺はわかっていない。

だが、当時の俺もとりあえず「どちらかがナースコール」という事実はわかっている。となれば看護師さんを押すには、「両方、同時に押す」を選択。
するとナースコールは押されるが、痛み止めスイッチも押される。
だから、看護師さんがやってきたタイミングで、意識もぼんやりする。

人呼んでおいて、気絶を繰り返す。なんて、迷惑な、人間なのだろうか。
これ以上、迷惑をおかけするわけにはいかない。

なんとか記憶を蓄積する方法はないのだろうか。
『メメント』のようにメモを身体中に貼ってやろうか。
看護師さんに頼んでメモを持ってきてもらおうか。
ナースコールはどっちだっけか、のようなことを延々と繰り返す。

深夜にこの「よくできたループ状態」は展開を迎えた。
痛みがひどくなってきたのだ。
痛み止めの点滴がなくなったらしい。

今なら右、左、両方押しても、痛み止めが一気に入り込んで意識が飛ぶこともない。ようやく、どちらの手に握っているのがナースコールなのかわかることとなる。ついにループから抜け出せる。

意を決し、左を押す。何も反応がない。意識も薄れない。
ということは、こちらが、痛み止めスイッチだったということだ。
つまりナースコールは、右である。ようやく判明した。

とにかく、水が欲しい。そのためには看護師さんを呼ばねばならない。
だが、果たして来てくださるだろうか。もしかしたら「人を呼んで気絶野郎」として周知されており、もう押しても誰も来てくれないかもしれない。痛みも乾きもひどいが、その事実を知る方がはるかに、恐ろしいのではないか。痛みに耐えながら、意識を保とうと歯を食いしばる。

うっすらと朝日が差し込んで、目が開く。結局、一時間ほど気絶しているようである。点滴の袋を見る。いつの間にか中身が充填されている。一瞬、最初に戻ったのかと不安になる。だが、替えてくださったようだ。何より手元のスイッチを見れる程度には上体を動かせるようになっていたことが証拠である。右手にナースコール。左手に痛み止めスイッチ、一目瞭然。ただし記憶が失うのが怖く、迷惑もかけたくないので、両方とも押せない。


いつもいつも本当にありがとうございます。