『未来は予測するものではなく創造するものである』を読んでる。

前置き

正確なタイトルは、『未来は予測するものではなく創造するものである ――考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』(樋口恭介・著)。202ページくらい読んだ。

最初に述べておくと、私の樋口さんの文章への第一印象は、かなり悪いものだった。私はネットで論争があると、当事者の書いたものを手に取ったりするのだが、『文藝』2021年春号で、樋口さんは「未来を破壊する」という文章を書いている。以前の記事でも引用したのだが、次のようにアジテーション的で、反逆者的なものだ。

「構造にフリーライドせよ」、「仕事をやめろ」、「頼まれた仕事を断れ」、「大企業で、倒産するまでサボり続けよ」、「倒産するまで経費を使い込め」、「あらゆるものに抵抗しろ」(同上・195, 196頁)

樋口さんは、ひとの感情を喚起する文章を書く人でもある。「『未来を破壊する』は文芸的にはアリだけど、社会論としてはナシ」というのが私の結論だった。ただこうした区別は、文芸やフィクションのポテンシャルを制限することでこれらを保護する、かなり舐めたものかもしれない。

前評判や立ち読み時点の印象では、『未来は予測するものではなく創造するものである』は、ITやコンサル系の仕事をする人に役立つ内容であるらしい。普通に考えて、「未来を破壊する」の論調からまともなアドバイスが出てくるとは思えない……。ビジネスという関係者との協調行動が必要な営みにおいて、反社会的な個人主義が通用するとは思えない。

まさか上記の思想をそのまま、『未来は予測するものではなく』に書くとも思えない。この時点で"予測不能"である。一体どうなってしまうのだろう、と思った。

社会とフィクションの関係を示す本だった。

『未来は予測するものではなく創造するものである』は、一種の社会論である。フィクション論としても読める。何より社会へのフィクションの影響可能性を示す本である。

フィクションは社会に、どんな創造的/破壊的影響を及ぼすことができるのか。繰り返すとさっきの前置きからは、どう想像しても悲観的な、"無効"という予測しか出てこない。

しかし、予測は裏切られた。樋口さんは本書で、「未来を破壊する」の反社会的アジテーションとは違う一面を見せている。

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まず「まえがき」では、未来は予測することができないものだ、と主張される。この辺はカール・ポパーも同様の結論を述べており、もっともな話だと思う。実験室のような統制された環境ならいざしらず、人間社会は人間の知識や行動によって、その時点での成長が変化する。だから未来は「「予測」するものではなく、Speculation = スペキュレーション(思弁/思索/投機)すべきもの」(25頁)だという主張にも頷ける。

次に科学的管理、データドリブン、KPI、予測AI、こうしたものに駆動されるビジネスや社会のあり方を批判し、未来を考えるとはどういうことかが論じられる。一種の哲学的プレゼンだ。樋口さんは、科学的管理法的なイデオロギーは「安心」を与えるが、それだけではダメだという。それらは楽しさや考える自由を閉塞させ、本当に欲しい未来からひとを遠ざけてしまう。

私はここで批判される、科学的管理法的なイデオロギーが無意味な仕事を生むという、ブルシット・ジョブ批判には半分しか乗れない。というのはジョセフ・ヘンリックが『文化がヒトを進化させた―人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』で語るように、何が合理的で何が不合理(ムダ)なのかの判断には、難しい問題だと考えるからだ。やってる人々からするとムダで無意味な決まりごとにも、実は個人や共同体の命運を左右する機能が隠されているかもしれない。

そうした不同意を踏まえた上で、確かにデータや科学的管理やアルゴリズムのみの語りは不十分で、それだけで未来を描くなら閉塞的になるだろうとも思う。このカウンターパートとして、未来を考えるための手法として提案されているのが、SFプロトタイピングである。

大切なのはストーリーだ。

といっても「SFプロトタイピング」という手法はあくまでも手法にすぎず、大切なのは未来を、できるだけ自由に考えることである。本書も「<SFプロトタイピング>をはじめる」というタイトルの章がはじまるのは125ページからで、それまではSF的思考とは何か、それがどうしてビジネスにも役立つのか、ということが論じられている。

私がもっとも印象深かったのは、"ストーリー"についての樋口さんの見解だ。たんに資料とデータとコンサル手法をつぎはぎしただけのプレゼンテーションは、ひとの心を動かし、集団をまとめる決定打に欠ける。私が思うに、これはストーリーがつまらないフィクションを想像するとよく分かる。

何が必要なのか。それは人の感情を動かすストーリーだ、と樋口さんは論じている。

それはなぜかと考えたとき、後ほど詳述しますが、人間は感情の動物であり、モチベーションの動物であり、ロジックやイシューやデータだけで、ビジネスに関係するすべてのステークホルダーを束ね、大きな事業を成し遂げていくのは難しいからだ、とわたしは思うに至りました。[…中略…] SFとはフィクションであり、物語であり、言うまでもなくそこでは、人の感情を突き動かす「ストーリー」が重要になってきます。そのためSFプロトタイピングは、既存のフレームワークでは決して成し得ることなかった、これからのビジネスを創出し、推進するための、一つの「武器」になりうるのだと言えるのです。(57-58頁)

SFプロトタイピングとは、みんなでSFのストーリーを楽しんで作り上げ、共有する。その勢いを殺さずに、なおかつビジネス上の特定の目的にも役に立つ何かが得られるといいな、というコンセプトだと私は理解した。本書は「<SFプロトタイピング>をはじめる」の章などで、かなり具体的かつ実用的にそのやり方を説明している。「何かが得られるといいな」というふわっとした言い方は、不精確かもしれない。それでもビジネスを意識しすぎて「遊び」の勢いを殺すことも、SFプロトタイピングを失敗に導くように思う。

恐らく"科学的管理法"的なものとSF思考は、半端に混ぜずにある程度離れつつも、ビジネスの組織内では相補的関係であることが望ましいが、このバランスを取ることは難しい課題になりそうだと思った。

こうしたストーリー論に注釈を入れるなら、一緒にストーリーを作ることも、ストーリーを語ることも共同体を形成することなのだ、ということを強調したい。ストーリーとは何か。ビジネスのプロジェクトなら、それはSFプロトタイピングのようなストーリーかもしれない。部族や国家ならば、宗教や建国神話かもしれない。……と話を拡げると、ヤバい方向に話が進みそうだ。言いたいのは「前置き」でのべたような、反社会的な個人主義ではない論理が、ここには示されている。ということだ。ストーリーで人々の一体感を醸成することで、プロジェクトが上手くまわる。

ある本で、ヒッピーやカウンターカルチャーの文化は、ラブ&ピースで共同体の意識を育てる可能性と、個人主義に向かう可能性があった。しかし今から振り返ると、個人主義に向かう流れが支配的だった。それはその方が楽しくて、楽だからだ。といったことを論じていた(ある本とぼかすのは、手元にないので不正確な記憶からの引用だから)。

もし個人主義が極端になり、他人を一方的に利用したり、我関せずという方を向いたり、孤立を意味する場合、それは少なくともプロジェクトの成功には向かない価値観だろう。本書は"ストーリー"という概念を軸にすることで、自由を追求しつつも、こうした隘路ではない道を示している。「前置き」の私の予測は、いい意味で裏切られたのだった。

余談

言いたいことは書き終えたのだが、余談を書いてみる。まず色々なSFや一般書の紹介があって良かった。私はSFというと『スタートレック』シリーズくらいしか、真面目に追ったことがないので。

2つ目。本書が体現する価値観の一つは、自由な創造活動と技術との組み合わせが新しいプロダクトを生み、社会を楽しくする、というものだ。SFプロトタイピングが普及すれば、(SFとはちょっと中心がずれるかもしれないが)人文的なリソースをビジネスに活かせる場が増え、救われる人もいるだろう。データやエビデンスといったアプローチに対する、およそまともなカウンターパートを本書で見たように思う。

またこれは問題含みだが。本書で提示されるものは、例えばマット・リドレーのような、技術と市場原理を愛好する論者とも遠くはない。マット・リドレー的なものは、『文明が不幸をもたらす』のクリストファー・ライアンのようなアナキストなど、ラディカル左派からは評判が悪い。ライアンの主張の問題点はともかく、その懸念には妥当な面もある。技術と市場原理を信じれば全てハッピー、とはならないだろうから。

そのためもあるし、ラディカルな人々は、何かと「改良主義」を下に見るためでもある。共産主義革命に類する大きな現実的/精神的変革以外だと、満足しないようにも見える。しかし記号的なラディカルさを除いたとき、その具体的効果や実現可能性とは何なのか。私にはよく分からない。

非ラディカルで改良主義的なスコープにおいて、本書は有効と思われる。樋口さんは喜ばないかもしれないけど…。また早川書房の一ノ瀬さんが『闇の自己啓発』と、『反逆の神話』文庫版というおよそ反対のものを手掛けるように、思想の論理とは別にある市場原理やビジネスの勢いが、私は今かなり気になっている。

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