リライトをするときどのように頭が働くか(01)

村上裕一のライター講座番外編

 思うところあり、商業ライティングの実践について少し書いてみます。具体的には取材した情報(録音など)からどのように完成原稿ができるかについてです。とはいえ、手元にある録音やテープ起こしなどはすぐに流用できるものでもないので、ここではログミーから引用して実験的にリライトしてみます。題材は落合陽一さんの記事です。適度に難しい感じでよいかなと思って。ここでは出版物にこの内容が掲載される前提とします。単著か雑誌かはわかりませんが、だいたいその辺り。

 最近のわたくしはこういうことばっかりしています。

引用元:「究極の個人情報は“人間の五感” 落合陽一氏が説く、多様化する社会のメディアコミュニケーション」(https://logmi.jp/business/articles/293285

じゃあ、我々が今メディアをどう考えたらいいのかを考えてみましょう。人間知能は五感でものを得ます。例えば目と耳と、触覚とそういったような五感と、筋肉によるアウトプットと、あと脳による処理と言葉もしくはメディアを通じてのコミュニケーションを取るわけです。

「じゃあ」って言ってるけどこれはどういうことだ。実際には「Advertising Week Asia2018」っていうイベントでのスピーチで、この手前にも内容があり、かつ、ログミーの書き起こしがあったようです。適当によさそうな記事を選択したせいで中盤から選んでしまったようですね。手前の記事はこちら。

「魔法の世紀に広告が果たすべき役割 落合陽一氏が語る「マス広告が死なない」理由」(https://logmi.jp/business/articles/293115

この記事の最後で「コンピューターを使って、どうやって視聴覚や体の動きや、もしくは保管された情報を最適化していくかというのは、今起こっている大きな社会問題の1つです。/それは単に、アスリートもしくはオーディオビジュアルの問題だけではなく、例えば介護施設でどうやって車椅子の自動運転をするのかなどといった、身体多様性に合わせたテクノロジーというものが社会に大きく必要になっていきます。」ということを言っていました。だからそれを踏まえます。まず「じゃあ」は口語なので「では」に変える。

 次に第一文が「考えたらいいのか考え」のように同じ述語を繰り返しているので、これを対処する。

・では、我々はいまメディアをどう考えたらいいのでしょうか。

 とりあえずこうしてみる。
 しかし冷静に考えると、「メディアを考える」というのはめちゃくちゃ抽象的な発言である。メディアというものについてどういう想像が可能なのか、という意味だろうか。それとも、メディアをどう捉えるべきか、という方向性だろうか。とりあえず次を読んでみよう。

人間知能は五感でものを得ます。

 この物言いでは普通は理解できない。本当は『デジタルネイチャー』を参照しておきたいが、この瞬間はそれがないので、なしで考えてみる。人間知能という言い方をしているのは人間でない知能を想定しているからで、それは普通は人工知能だと想像できる。そこでさしあたり「人間知能 人工知能 落合」などでググる。すると落合さんが「機械知能」「人工知能」などを発言していることがわかる。ということはこう補うことができると想定される。。
 
・人工知能に対して、人間知能は五感でものを得ます。

 しかし「五感でものを得る」とは何か。これは続きを読めば、単純に外界からの情報のインプットであるということがわかる。問題は「もの」と表現しているということだ。これは著者に特有の表現である可能性がある。そこでまたググる。そうすると「こういった人の五感への情報提示と自動認識タスクや空間認識タスクの融合領域はこれからAI分野の主軸になると思っています。」(https://amp.review/2018/10/05/the_ai_2nd/)という発言をしていることがわかる。ということは五感が(/で)受け取る「もの」を「情報」と置き換えても最悪のことにはならなそうだ。そこでこう書き換える。
 
・人工知能に対して、人間の知能は五感で情報を得ます。
 
 しかし知能が情報を得るとはなんだろうか? 得る/失うのような所有感のある語彙を、「知能」という名詞が本当に受けるべきだろうか。常識的に考えれば、五感で情報を受け取るのは「人間」のはずである。ここは無生物主語構文になっている。一応、念の為「知能」を辞書で調べておく。そうすると、知的能力や知的性質のことだと確認される。「知」が絡むと、脳のような統合的理性っぽいニュアンスが生じるため、術語が主語的になる――つまり無生物主語であるにもかかわらず、文法的にというよりも、意味的に述語を使役するのが自然に思えてくるという感じがある。たとえば「敏捷性」などのような言葉を考えてみよう。「敏捷性が情報を得る」といったら意味不明だろう。次にこう考えてみる。「知性は五感で情報を得る」これだと、前の例よりも自然に思えてくる。難しい。総合的に勘案した結果、
 
・人間(知能)は五感で情報を得ます。

という表現にする。さっき足した「人工知能」のくだりは外すことにする。なぜならば人工知能の対義語は人間だと考えられるが、人間知能という言葉はそこまで人口に膾炙しているようには思われず、人間知能を人間と同じような語として流通させるのは、ライターの立場でやるには踏み込みすぎと言える(ハイデガーが人間を「現存在」というようなもの)。カッコつきで(知能)といれることによって著者のニュアンスを残しつつ、構文上の破綻がないようにする。その上で問題があるなら著者が直すだろうとあずける。

例えば目と耳と、触覚とそういったような五感と、筋肉によるアウトプットと、あと脳による処理と言葉もしくはメディアを通じてのコミュニケーションを取るわけです。

 五感から情報を得る実例。「例えば」とは言っているが、五感の事例の場合、例え以前にこの実例以外には解剖学的にありえない気がするので、「例えば」は取る。事実上の換言なので「つまり」か「即ち」にする。目と耳は器官の名だが、触覚は感覚の名前なので、語の水準が揃っていないからそれを揃える。五感と言っているのに三個しか述べていないのは落ち着かないが、むしろ「五感」と言わない方が自然である。そして、後にすぐ「アウトプット」と言っているので、ここでは対応概念である「インプット」という言葉を採用する。

・すなわち、目や耳、皮膚からのインプット。

ここで気づくが「五感で情報を得る」という話と「アウトプット」それから「処理」の話は、冒頭の発言の射程を超えている。口でしゃべっていることなので前提が省略され、話も飛躍しているのである。これは適切に補うか整理するか、余分なところを圧縮してスマートにする必要がある。とりあえずざっくりと構造を意識して書き下したいところだが、いったん整理する。

 このとき「脳による処理」はインプットでもアウトプットでもなく、演算である。したがって第三の項目となる。他方で、「言葉もしくはメディアを通じてのコミュニケーション」だが、これは外界への働きであるから「アウトプット」に一見、質が近い発言に見える。しかし、筋肉を通じた外界の介入がどう定義されているかが不明である。言葉を経由する行動を、「筋肉によるアウトプット」と同じ種類と見れるかどうかはかなり文脈による。そしてここではこの発言が最後に回されていることから、そうではないと判断できる。問題はどういうパラフレーズができるかである。とりあえずここまでの認識に基づいて書き下す。
 
・人間(知能)は五感で情報を得ます。すなわち、目や耳、皮膚から外界の情報をインプットします。他方で、筋肉によるアウトプットを行います。同時に、獲得した情報を脳で処理しますし、言葉もしくはメディアを通じてのコミュニケーションを取ったりもします。

普通に書き下すと何やら変な感じがする。これは機能の序列がいまいち定義されておらず、かつ、直感と反する並びになっているからだ。脳が一番上で、その下にインプット・アウトプットがあって、その下にコミュニケーションがある、というくらいが構造的にはよさそうではないか。なぜ良さそうと言えるのかというと、解剖学的には脳が一番上で、手とか目とか足とかはその下にあって、言葉は口に紐付いているように見えて実際には概念的だから最後においてよい、という説明ができるからである。

余談だがインプットは受動的な概念なので、本当は「インプットする」という表現をこのシチュエーションでは取りたくない。しかし、インプットされる、と書くと、インプットしてくる側を概念的に具象化してしまうので好ましくない。この場合は外界・環境などがそれにあたるが、それを擬人化するのはよろしくない。本当は「受ける」「取り込む」などの日本語で表現したいところである。しかし、アウトプットという語を残した方がいい気もするので(著者の語彙を温存する)このままでいきたい。

上記を踏まえて書き直す。

・人間(知能)は五感で情報を得ます。すなわち、目や耳、皮膚から外界の情報をインプットします。他方で、筋肉によるアウトプットを行います。入出力だけでなく、人間は獲得した情報を脳で処理しますし、言葉(もしくはメディア)を通じてコミュニケーションを取ることもします。
 
 少しよくなってきた。「入出力だけでなく」という語彙を補うことで、脳の性質の違いを織り込む。「取ったり」は口語なので文語にする。問題は言葉とメディア、そしてコミュニケーションの定義である。マクルーハンを思い出してみる。メディアはメッセージである。メッセージとはなにか。少し問いが深すぎるが、ひとまず言葉で放たれた命令、という程度に捉えておく。そう考えると言葉とメッセージを同格で扱うという整理が可能になる。しかし本当にそうだろうか。本当は著者の本などにあたって確認したい。それからコミュニケーション。コミュニケーションはアウトプットとはどう違うのか。ここはさすがに気になるので即ググる。するとこういう記事があった。「“現代の魔法使い”落合陽一が考えるコミュニケーション――VRはやがて人間をイルカにする!? https://wpb.shueisha.co.jp/news/technology/2017/11/19/95090/」他にもあったが、これを読むと、コミュニケーションは言語に限らない、ということが言われている。逆にいえばコミュニケーションというものは通俗的な理解でも成立しそうである。ということはメディアをカッコにくくったりマクルーハンで理解しようとしたことは間違いだったとわかる。そうなると今度は「もしくは」が気になる。これがあるということは、コミュニケーションの方法は二つであり、言葉かメディアか、だということになる。ここまでは確信できない。著者に確認をしてもらうことを前提に、そのまま世に出ても問題のない表現にする。

 以上を踏まえて再度文章を見直す。

・人間(知能)は五感で情報を得ます。すなわち、目や耳、皮膚から外界の情報をインプットします。他方で、筋肉によるアウトプットを行います。また、人間は入出力だけをするのではなく、脳において獲得した情報を演算処理できますし、言葉やメディアを通じてコミュニケーションを取ることもします。

 「において」は脳を特権化するための助動詞による工夫。あとは大体こんなもんかなといったところ。では次に行きましょう。

そのうえで機械知能がいったい何をやっているかと言ったら、多様なセンサーや多様なアクチュエータやもしくはCPU、GPUを使って電気的なコミュニケーションを取ると。

 うおい、「機械知能」って言っているんじゃん。人工知能との違いはわからないが、さっきの想定における人間知能に対する対立概念は機械知能と認識すべきだ。と思ったけど余計な前置きは排除しておいたからとりあえずこのままでよさそうだ。「そのうえで」は文脈上不適切な接続詞。人間知能の説明に対置させているので、「他方」などを補う。CPUやGPUなどの演算装置の話も飛び出してくるので、さっきの文章の表現の適切性が確認できる。
 
・他方、機械知能の方はどうなっているかと言うと、様々なセンサで情報をインプットすることができます。その情報はCPUやGPUで処理され、アクチュエータでアウトプット可能な形に変換される。このような機構によって、機械知能も電気的にコミュニケーションを取ることが可能になっています。
 
「可能な形」など表現にあやがつく可能性があるが、こちらの考えでは一貫しているので、独特の負荷(付加)が無い限りはこれで行けるはずとして、著者の確認に回す。エンジニアライクに音引きを取って「センサー」を「センサ」とするかどうかは悩むが、とりあえず取ってみる。平面図と違って文章ではリニアにものごとを表現しなければならないが、単に情報を並列化しているというよりは、「コミュニケーション」という結語に力点があると判断して、「このような機構によって」という文言を足すことによって、最後の文に重心がかかるように表現する。ただし本当に「このような機構によって」と言っていいかは微妙に怪しいが、コミュニケーションを可能にする器官が動作に一対一対応する形では表現されておらず、調べてみてもあるとは言えない(人間でいえば心はどこにあるのか、というような話で、脳にあるといっても心臓にあるといっても不適切)。ということでこの表現でひとまず納得をしておく。

 次の文に行く。

この中で人間のメディアと人工のメディアが多彩に入り組んだ社会があって、これはただ単に映画のロジックでテレビに情報をつないで、それをコミュニケーションしてくる社会とは違っている。

 なんぞやー! とりあえず「この中で」は、よく政治家が使う「注意深く見守っていく中で厳しく自戒しなければならない」みたいな日本語の「中で」と同様。論理的関係を示さずに話題をつなぎたいときに頻出する。これは単純に「このとき」とかでいいと思う。もしくは「いま、」とかでもいいが、語をどのように配するかは全体のバランスで決まる。で、次に「人間のメディア」と「人工のメディア」という謎の概念が登場してくるため、これを解釈しなければならない……。
 
【ここでおしまい】

 ということでだいたいここまでの作業・思考で【一時間】くらいかかりました。その結果、

 じゃあ、我々が今メディアをどう考えたらいいのかを考えてみましょう。人間知能は五感でものを得ます。例えば目と耳と、触覚とそういったような五感と、筋肉によるアウトプットと、あと脳による処理と言葉もしくはメディアを通じてのコミュニケーションを取るわけです。
 そのうえで機械知能がいったい何をやっているかと言ったら、多様なセンサーや多様なアクチュエータやもしくはCPU、GPUを使って電気的なコミュニケーションを取ると。 

という文章を

 では、我々はいまメディアをどう考えたらいいのでしょうか。人間(知能)は五感で情報を得ます。すなわち、目や耳、皮膚から外界の情報をインプットします。他方で、筋肉によるアウトプットも行います。また、人間は入出力だけをするのではなく、脳において獲得した情報を演算処理しますし、言葉やメディアを通じてコミュニケーションを取ることもします。

 機械(知能)の方はどうなっているかと言うと、こちらも様々なセンサで情報をインプットすることができます。その情報はCPUやGPUで処理され、アクチュエータでアウトプット可能な形に変換される。このような機構によって、機械(知能)も電気的にコミュニケーションを取ることが可能になっています。

 (他方を近いところで二回使っていたのでそこを直したり、他にも微修正を入れました。)
 このように書き換えることができました。いやー、こんなに頑張って二段落か。割に合わんね。
 ただいちいち頭の動きを言語化しながら書いていったため、無駄に時間がかかっていると言えるので、実際の作業では1/2くらいの所要時間になると思います。とはいえ、これは内容理解が難しい落合さんの文章だったからと言えるため、普通の人の文章だったら常識的な補完が可能なはずなので、もっともっと速く処理できるのではないかな、という感じです。

 この事例でリライトの全容が詰まっているとは言えないけれども、頭を使わないとリライトができないとうことは示せたと思います。こんな感じで、教育カリキュラムを作っていきたいな、とわたくしは思っていますね……。

 なお特に有料領域には何も書いていないんですが、設定しておいたらお布施が来るかなと思って100円つけておいたので、奇特な人はよろしくお願いします。 

(終わり)

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