伊藤三代記 ― 花競戸隠誉 ― (はなくらべとがくしのほまれ) ①

世界に認められる国造り。明治政府は富国強兵、殖産興業を旗印に、近代国家へ猛進をはじめた。その一つとして国内の産物の調査・収集を目的とした「※博物局」を設置、植物・鉱物・生物などの天産物、書籍、芸術、古器旧物などを分野別に科を設け、学者・研究員を配置、全国各地に派遣した。

※博物局=大学南校に設置された物産局を、大学の廃止に伴い、明治4(1872)年文部省に移管して博物局と改めた。翌年太政官正院博覧会事務局に博物館と共に合併。同7年内務省に移設され、博物館と改称。同8年博物館内に博物局が設置される。同14年農商務省に、同19年に宮内省図書寮付属博物館に移設された。

発端

明治8(1875)年7月、長野県の山岳地帯に内務省博物局の博物科長・田中芳男が率いる調査隊が入った。調査対象は中央アルプスの空木岳、木曽御岳、飯縄山、戸隠山系高妻山、浅間山。空木岳は木曽の高山の中でも(容易ではないが)比較的登りやすい。また、空木岳以外は山岳信仰の地で、山麓に適当な宿もそこからの登山道もあることから、この六座が選ばれたものとみえる。しかし、約一ヶ月でこれらを調査するとは、なかなかの強行軍を計画したものだ。調査の内容は植物学、動物学、地質学、鉱物学などに加え、その地域の気候・風土・歴史なども聞き取りが行われた。

実は、この調査隊には博物局から派遣された職員ではない者が同行していた。伊藤謙。本草学の大家・伊藤圭介の三男で、父から薫陶を受け、将来を嘱望された24歳の気鋭の植物学者である(田中芳男は伊藤圭介の弟子)。

8月9日、その日は高妻山山頂まで登る予定で調査隊は早朝に出立。その途上、謙は林間に白い実をつけた植物を発見した。草丈が40センチあまり、根生葉はなく、茎葉は対生、葉形は三出複葉(軸の先端から3枚の小葉が出ているもの)で縁は欠刻状(鋭く切れ込みの入った形)。実は白く約2センチで楕円状、液果であった。見たことのない植物ではあったが、この時点で花はなく、資料に乏しかったため、謙はこれを丁寧に掘り起こすと、そのまま東京へ持ち帰って、圭介の勤務先である小石川植物園に移植して観察することとした。

小石川植物園の場

伊藤圭介は明治8年6月、文部省から小石川御薬園から改称したばかりの小石川植物園に「時々」出勤せよと内々に伝えられていた(この当時、小石川植物園は文部省の所管であった。2年後に東京大学の所属に変わる。)。そこへ息子 謙の発見した「未知の植物」が持ち込まれたのだから、圭介も興味を持たないはずもないだろう。かく云う圭介も、それ以前に戸隠へは何度となく訪れ、植物を採集している。圭介の記憶のなかにも、もしかしたらこの植物が断片的に残っていたのかもしれない。

翌年の初夏、高妻山で発見された植物は、東京の地で見事に花をつける。二つに分かれた葉柄の間からいくつかの花柄を伸ばし、ややうつむき加減に咲いた花は、薄紫の萼片が6枚、その内側に6つの花弁が鐘状に並んでいた。この未知の植物の花を得たことで、各部位の形状、季節における姿など観察・研究が進められると伊藤親子の期待がふくらんだ。

その矢先、謙は胸を患ってしまう。思うように研究が進まない中、時ばかりが無情に過ぎた。明治12年8月26日、謙死去。伊藤圭介の後継者として期待も大きかっただけに、28歳のあまりにも早い死であった。謙亡き後、「植物学の伊藤家」の正統なる後継ぎとなったのは、圭介の五女・小春の息子、篤太郎であった。幼い頃から圭介に植物について手解きを受け育ってきたが、このときまだ13歳。篤太郎の双肩には伊藤家と、謙の遺した研究が重くのしかかった。

(何回かに分けて書き継ぎます)

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