伊藤三代記 ―花競戸隠誉―③

研究室にて

1887(明治20)年、マキシモヴィッチは矢田部良吉から送られてきた「未知の植物」に困惑していた。観察を続けると、これはすでにロシアの学会誌『サンクトペテルブルク帝国科学院紀要』(1886)に伊藤篤太郎の発見した新種【Podophyllum japonicum Itô ex Maxim.】と同種と考えられるものの、果たして先の新種発表が正しかったのか、疑念が湧いてきたからだ。

ここで疑問がある。矢田部はこの「未知の植物」をどのような意図でマキシモヴィッチに送ったか、である。ただ単純に新種発表の事実を知らなかったのか、それとも自ら採集した「未知の植物」が篤太郎のそれと同種とは分からなかったのか、はたまた何かしらの「新たな発見」があって標本を送ってきたのか……。

この疑問、二人がつけた和名に答えが隠されているように思う。篤太郎はロシアの学会誌の発表の翌年、改めて自らの論文中でこの植物に「トガクシソウ」と和名をつけたが、後年、矢田部はこれに「トガクシショウマ(戸隠升麻)」と命名している。花や葉の形がキンポウゲ科【Ranunculaceae】の「レンゲショウマ」に似ているので「ショウマ」の名をつけたようだ。伊藤家のつけた「トガクシソウ」の名を使わず、矢田部やその教え子たちはあくまでも「トガクシショウマ」で通した。今もこの植物には「トガクシソウ」と「トガクシショウマ」の2つの名が用いられているが、標準和名は「トガクシソウ」となっている。

さて、マキシモヴィッチは学会誌発表後に研究を進めるなかで、この【Podophyllum japonicum Itô ex Maxim.】は、分類としてメギ科【Berberidaceae】ミヤオソウ属【Podophyllum】ではなく、メギ科に新属を設けそこに入れるべきではないか、という考えに至っていたからである。矢田部から送られてきた「未知の植物」もそこに少なからず影響を与えたと思われる。属が変われば新たな命名となる。このことをマキシモヴィッチは矢田部へ伝える。1888年3月8日発送の手紙には、

・属を新設して、改めて新種として発表する
・属名は【Yatabea】とする
・そのために追加資料がほしい

と記されていた。受け取った矢田部は手紙の内容に狂喜した。

植物学教室にて

明治21年、4年間のケンブリッジ大学への留学を終えて伊藤篤太郎が帰国した。自らが名付けた「トガクシソウ」がとんでもないことになっているとも知らずに。

篤太郎は留学以前から、東京大学の植物学教室を度々訪れ、植物学に関する資料を閲覧したり、教えを受けるなど、出入りを許されていた。自らの留学についても矢田部からアドバイスを受けていたこともあり、帰国後に御礼も兼ねて訪れていたようである。

帰国後まもなく、植物学教室を訪ねた篤太郎は大久保三郎から呼び止められる。マキシモヴィッチ博士から届いた「トガクシショウマ」の手紙のことを、伝えるためであった。その時のことを牧野富太郎は『牧野富太郎自叙伝』でこのように記している。

……この手紙のことをある時、教室の大久保さんが、その頃よく教室にきた伊藤篤太郎君に話した。大久保さんは、伊藤の性質をよく知っているので、この手紙を見せるが、お前が先に名を付けたりしないという約束をした。……

大久保にしてみれば、これを見せる意味は分かるよな、と釘を刺した部分と、後から知らされるのは辛かろうから先に教えておこうという、心遣いであったのかもしれない。しかし、穿った見方をすれば、大久保は決定以前のこの時期に「まだ間に合うぞ」と篤太郎を即したのではないか、とも思える。牧野が記したように「伊藤の性質をよく知っている」ならなおのことそう思えてならない。

続きは後日。

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