伊藤三代記 ―花競戸隠誉―④

三代の誉

大久保三郎から「トガクシショウマ」の話を聞いた伊藤篤太郎は、マキシモヴィッチに送り届けた伊藤謙採集の「タイプ標本」を元に、新たな論文執筆にかかる。時間はない。しかし、やるべきことは分かっていた。マキシモヴィッチがやろうとしている「新しい属をたてること」と、そこに「トガクシソウ」を改めて入れることである。属の名前は【Yatabea】などとつける気はない。日本の本草学の大家である小野蘭山から【Ranzania T.Itô】とし、学名は組み替えて【Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô】とした。これは伊藤家が本草学の家であった誇りを示すものでもあった。1888(明治21)年10月、篤太郎はイギリスの植物学雑誌 『Journal of Botany, British and Foreign』へ、新属とトガクシソウの学名を【Podophyllum japonicum T.Itô ex Maxim.】から【Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô】へと組み替えを提唱する論文を寄稿した。これにより矢田部への献名【Yatabea japonica Maxim.】の話は立ち消えてしまった。

破門草

明治21年10月、篤太郎が断りなく英国の植物学雑誌に「トガクシショウマ」の新属を提唱し、学名を改めたことを知り、矢田部は激昂した。自らの名を冠する植物が目前で不意になったのだから無理もない。大久保も面目を潰されたとして怒っている。その腹いせとは言わないが、矢田部はそれまで認めていた篤太郎の東大出入を禁止してしまった。これが『牧野富太郎自叙伝』に書かれた「破門草」のいわれであるが、本当に矢田部は篤太郎を破門としたのだろうか。この一件の後、篤太郎は矢田部の許を何度か訪れていて、それは矢田部の死の間際まで続いている。だが篤太郎訪問の理由は分からないので、なんともいえない。

学名命名は篤太郎に軍配が上がったが、和名については伊藤家命名の「トガクシソウ」と矢田部命名の「トガクシショウマ」が今も使用されている。矢田部の弟子たちが「あくまでも」この名を用い、矢田部の功績を後世に残そうと語り継いだということだろうか。

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