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溺れた王

1845年8月25日、バイエルン王国皇太子マキシミリアン2世とプロイセン王女マリーとのあいだに継嗣が誕生。この子には祖父である国王の名を受け、ルードヴィッヒと名付けられた。

1848年、その国王はローラ・モンテスという踊り子との醜聞から退位を余儀なくされ、皇太子が王位を継ぎ、それに伴い王子はこの年生まれた弟オットーと共にミュンヘンを離れ、山間部のホーエンシュヴァンガウ城で少年時代をすごした。この城は父王マキシミリアン2世が荒廃したシュヴァンシュタイン城を買い取り再建した城で、芸術を愛するヴィステルバッハ王家の持ち物らしく、壁一面に は中世の説話『ローエングリン』などを題材とした絵画で埋め尽くされていた。ルードヴィッヒはこのロマンチィックで耽美な世界に一発でのめりこんでしまう。 そしてこの王子の一生を変えてしまう出来事が15歳のときに起こった。ワーグナーとの出会いである。
その日、王子はミュンヘンの宮廷劇場でオペラ『ローエングリン』を観劇し、夢にまでみたあの世界が眼前に広がっていることに身を震わせて感動した。そしてワーグナーに心酔した。

1864年、父マクシミリアン2世の急逝により、18歳にして王位に就いたルードヴィッヒ2世が初めて下した命令はワーグナーの召喚であった。だが、世間知らずの青年王にありがちな、ワーグナーに傾倒して執務を疎かにするなどということは無く、若き国王は真面目に政務に従事し、容姿端麗で気さくな人柄から国民の厚い信頼を得ていた。
時代はナポレオン政権の崩壊からヨーロッパ再編が加速、ドイツでも十数カ国の王国と幾つかの自由都市からなる連邦国家が誕生した。バイエルン王国はこの連邦の中にあって第二席に位置する国力を備えていた。しかし、その連邦も内実はまったく機能をなさないもので、隣国オーストリアを巻き込んだ国 家建設を目指す大ドイツ主義と、オーストリアをのぞいた国々で作る連邦国家小ドイツ主義の二論が対立していた。
この論争のさなか、強烈な指導力を持って統一ドイツの達成を目論む男が現れた。連邦のなかでも最大規模を誇るプロイセン王国の宰相ビスマルクである。鉄の宰相の異名をとる彼が動きだし たことで、ドイツ統一は現実味を帯びてきたのである。折もおり、ルードヴィッヒ2世はこの難局に即位したのだった。
バイエルン王国もこの流れに抗えるはずもなく、いかにすべきかが問われていた。芸術を愛するバイエルン国民はその多くが保守的で、実をいうと国王の愛するワーグナーは革新的な音楽を創作する新教徒としてかなり嫌われていた。パトロンであるルードヴィッヒ2世はバイエルン王国の行方が不透明なこの 時勢に国王と国民が対立することは適当でないと考え、せっかく召喚したワーグナーに国外退去を消極的に勧め、またワーグナーもこれを受け入れた。去ったのちもこの二人の交友は続き、ワーグナーの死までに700通を超える消息のやり取りが行なわれたという。

1866年プロイセンとオーストリアがドイツ統一について対立、戦争となった。ルードヴィッヒ2世はオーストリアに加担、これにより北ドイツ(プロイセン側)対南ドイツ(オーストリア側)の構図が鮮明となり深い亀裂を生じたが、たった七週間で戦況は確定し、戦闘はプロイセンの大勝で幕を閉じた。これによりバイエルンはプロイセン主導の北ドイツ連邦からはずれ、なお多額の賠償金を求められた。

翌年、ルードヴィッヒ2世は婚約を発表し半年後に破棄している。相手は従姉妹のゾフィー。戦後ということもあり婚礼は伸ばし伸ばしになっていたが、敗戦の沈滞した空気を一掃する慶事に国を挙げての祝賀ムードは最高潮に達していた。ゆえに国王の婚約破棄は国民の落胆を誘った。なぜ婚約は破棄されたのか、ゾフィーの姉のエリザベートへの思慕があったとも、女性を愛せなかったからなど様々な憶測をよんだが、 理由は不明であった。このこと以降、国王は極度の人間不信に陥ることとなる。

1870年の普仏戦争を期にビスマルクはドイツ帝国を打ち立てようと画策していた。普墺戦争のときに結ばれた屈辱的な条約により、プロイセンの同盟国となっていた大国バイエルンを帝国に引き入れるようと考えたのである。この話にルードヴィッヒ2世は、王として格が上であるバイエルン国王と、国力が上位であるプロイセン国王が交互に皇帝に即位することを提案した。しかしビスマルクはこれをよしとせず、プロイセン国王を皇帝に推挙する代わりに、この帝国下でバイエルンのみ外交、軍事、鉄道などの特権を認めるとする提案をした。ルードヴィッヒ2世は国家国民のためにはこれが最良の策であろうと考え、これを受け入れた。1871年1月、ここにプロイセン支配によるドイツ帝国が誕生した。
このことがさらにルードヴィッヒ2世の精神を蝕んでゆく。自己の判断とはいえ、国政を放棄した国王に存在価値は皆無であった。ルードヴィッヒ2世は中世の伝説の中へとその身を沈め、中世の古城の再現に力を注ぐようになった。すでに即位当初のあの長身の美男は何処かに消え去り、外出することも少なく なっていたために肥え太り、歯も失われ、城に閉じこもったきりの痛々しい姿から国民は王を『孤独の王』と呼んだ。この時すでに、国王の生活は幻想の中にあったといっていい。名高いノイシュヴァンスタイ ン城やリンダーフォフ城といった城の建築に国費を投入し、尊敬してやまないルイ14世や16世、マリーアントワネットと共に「ひとりで」食卓を囲み、日々ワーグナーの歌劇のなかに遊んだ。

1871年、対外交渉の出来ない兄に代わり、ヨーロッパ中を飛び回っていた弟オットーが突如精神病悪化を理由に軟禁された。たった一人のよき理解者であった肉親を奪われた国王の孤独はさらに加速していった。 城建設が絶え間なく続くバイエルン王国では、財政破綻寸前まで追い込まれていた。首相であったルツはこれ以上の財政逼迫はまずいと考え、1886年、ルードヴィッヒ2世を「パラノイア(偏執症)」と診断した書類と共に、6月12日ノイシュヴァンスタイン城の国王を逮捕、ミュンヘンのベルク城に軟禁した。翌日は聖霊降臨祭(whitsuntideあるいはペンテコステ)であった。朝からの雨のなか王は散歩をしたいと申し出た。まず午前、精神科医であるグッテンと看護人が付き添い散策は行なわれた。今度は夕方、再び王が所望したので今回はグッテンのみが付き添うことになった。ところがいつまでたっても二人は戻らなかっ た。心配した人々は午後8時に捜索を開始、10時過ぎにシュタルンベルグの湖で二人の帽子を発見。午後11時過ぎ、二人の遺体を湖中に見つけた。

なぜ二人が水死したのかは謎である。推測では、ルードヴィッヒ2世はグッテンの制止を聞かずどんどん遠くへと歩みを進めてしまっていた。グッテンが掴みかかると王はこれを振り払い何かしらの方法で殺してしまった。王はこのことに愕然として自らも死を選んだのであろう。 王は今もミュンヘンの聖ミヒャエル教会に眠っている。

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