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“サ”は詐欺師のサ ー“F” for fakeー

ロシアの初代ツァーリ(公認皇帝)イヴァンⅣ世(1530-84 雷帝)の死後、後継者選定は混乱を極めた。 この雷帝には三人の後継候補、つまり三人の息子、長子イヴァン、次子フョードル、そして庶子のドミトリーがいた。いずれが皇帝を継ぐかで三つ巴の混乱が起きていたのかというと、そうではなかった。 すでに長子のイヴァンは1581年に雷帝との言い争いから杖で撲殺されこの世にはなく、次子フョー ドルは病弱で頼りがない。ドミトリーは庶子ということもあり、すでに帝都モスクワにはなく、近隣のウグリチに領地を与えられ、母とともに隠棲させられていた。父の狂性を帯びた指導力によりまとまっていたロシアという大国を掌握するには、いずれの候補も心もとなかったための混乱であった。
しかし、空位にしておくわけにはいかず、次子が即位しフョードルⅠ世となり、生前雷帝が選定していた5人の後見を置くことにより、政権の空洞化を避けようとした。このことが更なる混乱を招いてしまう。後見人はそれぞれの思惑から権力闘争を起こし、最終的には後見頭目のイヴァン・シェイスキーと、フョードルの義兄にして新興貴族のボリス・ゴドゥノフが主導権を争うこととなった。
時まさにタタールのモスクワ侵攻に揺れる危機的状況、さらに二大貴族の闘争が加わり内憂外患、病弱なフョードルをなお弱らしめた。
ここを期と見たイヴァン・シャイスキーはこの政情不安はボリス・ゴドゥノフの妹、帝后のイリーナが皇太子を生まないからであると、宮廷からの追放を目論んだが、この軽率な行動から、逆にゴドゥノフにより当人はおろか親族郎党を宮廷から駆逐されてしまう。政敵の失策により、ゴドゥノフは政権を完全掌握したのだ。
さて、政敵は追い落としたものの、シャイスキーの指摘の通り、心配なのはフョードルに子のないことである。皇帝にもしものことがあれば、民衆はリューリク家(イヴァン雷帝の一族)に連なるものを後継者として望むであろう。そうすれば庶子ながら、ドミトリーが帝位に就く。そればかりはゴドゥノフは避けたかった。
そんな折、1591年ドミトリーは発作による狂乱から自ら胸を突くという変死を遂げる。これはいかにも出来た話で、ゴドゥノフが毒殺し、のちにでっち上げた作り話であろうと噂された。だが、1598年フョードルⅠ世は子供を残さずに病死、リューリク家はここに断絶してしまう。
貴族たちは合議によりゴドゥノフを帝位に据えることを決定したが、ゴドゥノフはこれを再三断っている。彼にしてみれば、崇拝をうける者になることより、それを利用して政治を好き勝手にすることを望んでいたのだ。それでも即位を望む貴族たちの声に断りきれず、とうとう帝座に据わることとなった。

長くなったがこれは前置き。ロシアの頂点に立ったゴドゥノフⅠ世は推薦されたのにもかかわらず人望が薄く、旧来の大貴族の反感も買っていたため、各地に叛乱の火種を抱えていた。どうにかこれを押さえ込もうと、恩赦やロシア正教への便宜といったことで民心を掌握しようとしたが、うまくいかない。ゴドゥノフは即位したことをよほど悔やんだことであろう。
1603年、ゴドゥノフの耳に信じられない報告が舞い込んで来た。ポーランドでドミトリーを名乗る男が現れ、ポーランド王とコサックの援助を受け部隊を率いてモスクワに侵攻してきたのだ。 死んだはずのドミトリーは実は生きている、こんな噂は以前からあったが、それはあくまでも噂で誰も存在を確認したものはなかった。それが突如として現れたのだ。火種は煽られて、一気に燃え上がった。
反ゴドゥノフを掲げる貴族はこぞってドミトリーを支持し反旗を翻した。進軍は枯れ野を行くかのごとく、あっという間にロシアを縦断した。
1604年7月20日、ドミトリー軍は数度の敗戦を経験したものの、モスクワに入城しゴドゥノフ家を辺境に追いやった。翌年、ゴドゥノフは返り咲きを夢見ながら憤死、ゴドゥノフの子フョードルがわずか4歳にして即位を宣言した(フョードルⅡ世)が、まもなく殺害された。
1605年、民衆の熱狂的な歓迎をうけ、ドミトリーⅠ世は即位を宣言する。これでリューリク家による帝政が復活する、と誰もが思った…わけではない。一部には「ドミトリーは本物か?」という者がやっぱりいた。ローマ教皇庁もその中の一人で、ドミトリーのロシア皇帝即位を承認しなかった。それを証明するかのように、即位後になんと三人もの「ドミトリー」を名乗る者が現れた。が、いずれも贋物として「ドミトリーⅠ世」の名の下に処刑されている(うち一人は処刑前に死亡)。
こんな疑念を抱えつつ、ドミトリーは政治を取り仕切っていくが、その多くは即位に多大な恩恵を蒙ったポーランド王の言いなりであった。またモスクワに駐留していたポーランド兵の乱暴狼藉には民衆の誰もが耐えがたき屈辱を感じていた。このことにもまして、皇帝が民衆の心の支えであるロシア正教からカソリックに改宗してしまったことが、失意をもたらしたのだろう。
1606年、「ポーランド兵から皇帝を救え」と始まった暴動が、時を経ることで徐々に変質し、いつの間にか「ポーランドに国を売った皇帝に死を」となっていた。これを煽動したのは、のちの皇帝ヴァシーリ・シャイスキーであった。ドミトリーは外で起こっている騒動にいち早く気づいたが、ときすでに遅く、将兵に取り囲まれて一寸刻みにされてしまう。ひとりの将校が馬乗りになり、
「お前の本名は」
と訊いたとき、
「朕は皇帝」
と答えたという。(この男、本当の名をグレゴリー・ボグダノヴィッチ・オトレピエフという。もとは修道士であったが、いつごろからか「私はドミトリーだ」と思い始め、とうとう妄想と自己との区別つかなくなってしまったらしい。)
死体は晒されたのち焼却され、灰は埋葬されることもなく、大砲でポーランドに向けて射ち帰された。 世に「偽ドミトリーⅠ世」と呼ばれた男の去ったあと、ゴドゥノフに追われた一族の生き残りヴァシーリ・シャイスキーが皇帝に即位(ヴァシーリⅣ世)し、またフョードルⅠ世の子を名乗る者がフョードルⅡ世を宣言するなど、虚実入り混じった帝位争奪戦のなか、再び「ドミトリー」を名乗る者が現れた。
「死んだドミートリーは替え玉で朕が本物である」
と現れた「偽ドミトリーⅡ世」は、北部の都市トゥシノに拠点を置きポーランド、コサック、リトアニアの協力を取り付けた。ヴァシーリⅣ世はスウェーデンと手を組み 一度は偽ドミトリーⅡ世を退けるが、ポーランドの猛攻に耐え切れず敗走。ドミトリーがモスクワに再び (?)入城しようとした1610年、タタール人のウルーソフにより、あっけなく暗殺されてしまう。(その数ヵ月後Ⅲ世が、また一年後にⅣ世が現れたが、いずれも処刑されている。)
この混乱は1613年、大貴族ミハイル・ロマノフがツァーリに選定され、ロマノフ王朝が成立するまで続いた。 歴史上に貴種の名を騙る「偽落胤」は数あれど、こんなに短期間にたくさん出ることはないな(最終的に 七八人出て、全員死亡って…)。
権力欲ってすごい…。


絵空事。よく言いますよね。「あんなの映画の世界だから」とか、「いかにもアニメだね」とか。でもこの話は本当の話。
1910年、イギリス海軍ウェイマス港。一本の電報から話は始まる。

-アビシニア(エチオピア)の皇帝および皇太子が海軍視察にむかった 外務省

海軍はそんなことは聞いていないというのでてんやわんやの大騒ぎ。礼服を着込み、軍楽隊を調え、いちおうの国賓歓迎の支度を整えた。だが一番の誤算は、この部隊でエチオピアについて唯一通じていた将兵が、休暇中であったこと。 その頃、ポートランド駅にはお召し列車が到着、皇帝以下六名がウェイマス港へと向かう。皇帝とその侍従が二名、アビシニア皇女、通訳のカウフマン、それに英国外務省代表ハーバード・チョオモンドレイ。提督は皇帝の来訪を心より歓迎し、栄誉礼をもってこれを迎えたあと、軍艦へと案内し食事を差し上げたいと申し出た。ところが、皇帝はこれを断った。通訳のカウフマン氏曰く、
「アビシニアでは異教徒の作った食事は致しません。」
まあよい、というので、今度は艦長が代わって様々英国海軍についての解説をすると、いちいち頷かれ、
「ブンガ!ブンガ!」
と繰り返しおっしゃる。
ブンガ!ブンガ!とはなんですかと通訳に訊くと、
「すばらしい。ということです。」
という返事。これには提督も艦長も気をよくして、なお捲くし立てて英国海軍の美点をあげつらえば、今度は皇女が、
「チャック、アチョイ!」
とおっしゃった。これはと問うと、
「女性は『すばらしい』というとき、『ブンガ!ブンガ!』ではなく『チャック、アチョイ!』と申します。」
と答えた。 上機嫌の皇帝一行はこの日一泊し、翌日軍艦一隻の購入を約束して、また列車で帰っていった。
…という話です。えっ、なにも面白くない?そりゃ、世界に冠たる英国海軍は面白くなかったでしょうね。 青二才にしてやられたのですから。
このアビシニア皇帝一行は全員贋物。それもケンブリッジに在籍している二十歳そこそこの学生たち。仕掛け人は誰あろう「贋」英国外務省代表ハーバード・チョオモンドレイこと、いたずらの天才ホーレス・ド・ヴィヤー・コール(1883-1936)であった。コールは名門の出で、イギリス首相ネビル・チェンバレンの甥に当たる。以前もケンブリッジ在学中にも「偽ザンジバル君主」になりすまし、母校を訪れて晩餐会に招かれるという「前科」があったが、今回の「偽アビシニア皇帝」はもっと壮大ないたずらを仕掛けたのだ。
この時皇女役を務めたのはヴァージニア・スティーヴン、のちに結婚してウルフと姓を変える。世界的女性作家にしてフェミニズムの旗手、ヴァージニア・ウルフその人である。処女作『船出』でセンセーショナルなデビューを飾る5年前のことである。 ちなみに堂々たる通訳カウフマンを務めたのは実弟のアドリアン・スティーヴンであった。
このいたずらを成功に導いたのは綿密な下調べがあってのことである。この部隊で唯一の「アビシニアを知る将校」の非番を狙っていること、外務省の打電方法で同省が使用する発信局から送るなど、初期段階でのいたずら発覚を防いでいる。そして金に飽かせての贋物作り。皇帝の礼服、典型的外交官の服装、偽勲章、偽お召し列車などで彼は4000ポンドもの大金を費やしたといわれている。そして調子に乗ってくれば、多少粗が出ても相手は気づかない。彼らは誰一人アビシニアの言葉などひとつも話せないが、相手の提督らも同じように言葉がわからない。そこでギリシャ語とラテン語の混合語で「アビシニア語」風の言語を作り上げ、会話するという荒業に出たが、提督らはそれと全く気づくことはなかった。それが証拠に、軍艦購入を切り出され たとき、提督は「ブンガ!ブンガ!」と叫んで喜んだとか。
のちに事が露見したとき、イギリス海軍は歯がみして悔しがり、ロンドンっ子は諸手を上げて喜んだ。その日からしばらく、
「ブンガ!ブンガ!」
が流行した。


日本にはなかなかここまで痛快かつ壮大なものはないので、美術界震撼の事件をひとつ。
昭和37(1962)年5月12日、川崎の百貨店さいか屋で行なわれていた美術展の会場からルノワール作の『少女』が盗まれた。貸出していた藤山愛一郎はこの盗難に対し、
「もし返還してくれるならば、その絵は国立西洋博物館に寄贈する。」
と公言した。絵画自体は公表されているものなので転売することは不可能であり、金銭に困った犯行であるなら犯人に得はない。7月2日、東京都下の路上で発見された一文にもならない『少女』は、藤山氏の言葉どおり即日美術館に寄贈された。美術館側もこの寄贈を喜んだが、どうもおかしい。
「贋作じゃないのか?」
ここに一人の男の名前が浮上した。滝川太郎(1903-1980)。藤山は直接「滝川」から買ったわけではなかった。だが遡ってゆくと、出所はこの男と判明したのである。
では、この「滝川」なる人物は何者なのか? 戦後まもなく開催され、観客30万人を動員したという「泰西名画展(読売新聞主催)」のときも名のあがった「画家兼鑑定家」である。滝川は戦前パリに滞在し、名の知れた画家の作品を金持ちたちに斡旋していた。この時販売された絵画が「泰西名画展」の中に少なからず含まれており、「贋作では」と疑われていた。そしてまた一枚、滝川のもとから「贋作」の容疑のかかった絵が出現したのだから穏やかではない。
昭和43(1968)年、突如として『芸術新潮』誌上に滝川は「贋作作者」として告発される。これまでの経緯や被害者の証言などを交えて発表された手記は、当時かなり衝撃であったらしい。それはそうだ。滝川を出所とする有名作家の西洋絵画数十点はすべて贋物であると、誌上で言い切っていたのだから。
滝川はもとより、仲介した画商らも、顧客から夜も日もなく糾弾され、「戦後最大の贋作事件」として連日報道された。 そんな時、被害者の一人として滝川評を寄せた美術評論家のもとに大きな小包が届けられた。差出人は滝川本人。開けてみるとコローの絵であった。
「また贋作か」
とサインを見ると、
「D'apre`s Corot, Takigawa Taro (コローの複製、滝川太郎)」
と書かれていたという。
またある人が、滝川にあなたの職業はと聞いたことがあった。曰く、
「鑑定家です。」
と。
昭和46年、滝川は今までの贋作事件の一部始終を語り、約300点に及ぶ贋作を世に送り出したことを誇らしげに白状した。この事件の顛末は結局うやむやになってしまいよく分からないが、とにかく滝川太郎という人物は煮ても焼いても食えないが、実に人を食った人物だったことは間違いない。

実はこの滝川作品の『少女』は、未だに西洋美術館の奥深くに仕舞われている。そのほか“偽作でない”滝川の絵は各地の美術館で見ることができる。


どうせ日本美術界を揺るがせた事件を書いたのならもう一つも書いておこう。ご存知の方も多いであろう「永仁の壺事件」である。
この事件の正式名は「瀬戸飴釉永仁銘瓶子贋物事件」(長い!)というが、一般的には「永仁の壺事件」で通っている。
事の発端は戦中の昭和18(1943)年のことであった。岐阜県の某村村長が考古学史上一大センセーションを起こす発表をしたのである。
「永仁年製の瓶子が完全な形で出土した」
永仁といえば鎌倉後期、西暦1293-98年までの6年間使用された年号であり、古窯であった猿投窯から瀬戸や美濃に窯が移動を始めた頃にあたる。出土した陶片に年号が記されてあれば、その窯の成立時期を特定できる貴重な品となる。しかもそれが完全な形で出てきたとなれば、なおさらではないか。 これを発見したのは陶芸家・加藤唐九郎(1897-1985 ’52 人間国宝)であった(「陶芸」という言葉はこの人が作った)。自らの陶工の腕を上げるため、古窯(昔の窯)の跡を発掘し研究をしていた唐九郎が、 昭和12年に「松留古窯」と呼ばれる窯跡で発掘したのだという。年代の確定は、周辺の陶片などとの比較でおこなわれ、確かに同様の土と釉薬の使用が認められた。 この瓶子の調査は戦後間をおいて改めて行なわれ、珍しい品であるにもかかわらず、文部省は重要文化財に指定しなかった。
「どうもこの銘の入れ方には疑問がある。」
疑えば怪しいところなどいくらも出てくるが、それを否定できるだけの材料はなかった。文部省側もはっきりと
「贋作である」
とは言い切れず、「灰色」のまま放置するしかなかったのである。
そこで登場願ったのは陶芸家にして文化財保護委員(文部省技官)の小山冨士夫(1900-1975)であっ た。小山はこの瓶子を「本物」と鑑定。これを受けて昭和34(1959)年文部省は重い腰を上げ、「永仁の 壺」を重要文化財に指定した。 ところが一転翌年の35年に「贋作疑惑」が再浮上。発見者の唐九郎は国外逃亡してしまい行方不明。 マスコミはその息子加藤嶺男に群がった。8月、とうとう嶺男はこの瓶子は贋作であることを新聞紙上に 暴露。唐九郎も滞在先のパリから9月23日贋作を告白した(1937年にすでに製作し、埋めて時代を付けていたらしい!)。 それだけではない。唐九郎は「松留古窯」まで自作して、陶片を偽作していたのである。無論人間国宝の指定は取り消し、自らも陶芸関係の協会役員をすべておりた。また図らずも贋作の片棒を担ぐことになってしまった小山は文部省の職を辞して、野に下り陶芸一筋に生きることとなった。 この事件で不思議なことに加藤唐九郎の人気はぐんと上がった。なにせ、 「お上をだました男」 なのだ。鎌倉古窯の瓶子が焼ける男、それだけの確かな腕があるのは証明された。人間国宝であること より、だますことで民衆の信用を得た唐九郎は、なにやらそうなることを予想してわざと「永仁の壺事件」 を仕組んだのではないかとうがった見方をしたくなってしまう。そうなると小山はなんとなく巻き添えを喰らってしまったことになるが、その後の創作活動を見ると、案外悪い傍杖ではなかったのかとも思える。ま あ、一番の損をしたのは振り回されるだけ振り回された文部省なのかもしれない。


Fraud = (詐欺) 商売の活力、宗教家の真髄、そして政治権力の土台
Rogue = (詐欺師) 間抜けという作物が山ほど取れるところにいつも群れをなしていて、この作物を常食にしている害虫の一種
『悪魔の辞典』 A・ピアス著

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