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ならうということ

茶の湯をはじめて、かれこれ20年近くになる。免状を取って教授になるわけでもなく、誰かを招いて茶会を開くわけでもなく、ただ師に付き、教えを乞う20年。それだけ続けたところで、私なぞは茶の湯の世界では裾野もすそ野、一合目に到達したくらい。上手と言う人は何年も経たず教授となるが、私の目標はのんびりと通い続けることだから、これでよいのだ。

茶の世界に身を置き、見るべきものを見、聞くべき話を聞き、知るべきことを知る。身のこなし、礼儀作法、ものの見方を身体に叩き込む。これを常とすることで、普段の生活でも意識することなくそれを実践することができるようになる。茶の湯においてこれが理想だが、まぁ、あくまでも理想なので、そこまでたどり着くことは生半可のことではない。一生かかっても無理なことは分かっている。でも、そうありたいと思うから、習い続けている。いや、それができるのなら、すでに茶の湯の上手となっているか。

さて、そうなると習いごとにゴールはあるのか、ということになる。正直「一生修練」ということにほかならない。それは教授、先生と呼ばれるようになっても終わることはない。道を極めてこれが頂点、となっても、そこに到達したものはまたその先を見てしまう。そんな極めた人たちでも終わりがないのだから、末端の私には終わりすら見えないのが当たり前。それはある意味幸せでもある。一生をかけて挑み続ける楽しみがある。
逆をいえば、自分でゴールを決めたって、なんの問題もないわけで、「ここで目標到達です!」といってやめてしまってもいい。なんの到達もなく、辞めるのも、それはそれで意味があると思う。そこは個人のさじ加減。習いごとから離れてみて、はじめて分かることもあると思う。そして再び戻るのもよし、戻らないのもまた良し。

また、一つの習いごとをしていると、万事に繋がってくる。例えば、花を生ける、香を聞く、書画を観る。それは茶の湯を構成するものの一つであるのと同時に、それぞれが独立した藝事でもある。床の間に生けられた花に興味を惹かれれば華道への入口が、炭点前で香の芳しさに魅せられれば香道への入口が、書の流麗さ、絵画の洒脱さ、様々な世界への入口が、そこここに散りばめられている。これは茶の湯だから諸芸に通じているのかというと、そうではない。習いごとがピアノであれ、ゴルフであれ、英会話であれ、それを習うことで様々な世界への入口が開かれることになる。ピアノを習えば様々なジャンルの音楽に触れる、ゴルフを習えば身体づくりにいそしむ、英会話を習えば英国やアメリカの風習や生活を知ることとなる。要は、そこに興味をもって新たな入口へ飛び込んでいけるかなのだ。

私が茶の湯に興味をもったのは裁縫からだった。趣味で裁縫をしていると話したところ、知り合いにお茶会に持つ「数寄屋袋」を作ってほしいと言われ、はたと困ってしまった。数寄屋袋とはなにか。これは調べれば分かるものだが、果たしてそれでいいものなのか?使い勝手が分からずに作るのは、作り手としての矜持が許さない(そんな立派なものではないけれど)。そう思い立ち、その週のうちに今の師の門を叩き、習い始めた。
師には「そんな理由で始められた方ははじめてです」と言われたが、今となってはあの時に思い立って良かったと感じている。


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