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お茶漬讃歌(付 葬式まんじゅう茶漬体験記)

お茶漬は奥が深い。シンプルでいて難しい。それはおむすびと双璧を成す。
もしあなたが「お茶をかけてかきこむだけの、間に合わせの食べ物」程度の認識であるなら、お茶漬に今までの非礼を謝ろう。

お茶漬は定型があるわけでもないが、やらねばならぬことが二三ある。うまいものを食べようというのだから、多少の窮屈は我慢しなければならない。

まず最低限ご飯はざるにあげ、湯通ししなければならない。このとき、きれいに「ぬめり」を取っては ならない。ぬめりを取り去ろうと水に長く晒してしまうと、ご飯粒のモチモチ感が失われ、食べたときぼそぼそとして美味くない。ざるに入れたご飯を二度、湯に泳がせ固まったご飯をほぐすぐらいがよい。冷やご飯なら温めなおしは必須だ。湯をよく切ったら、水気を吸わないうちに手早く盛り付ける。ご飯はこれから注ぐお茶のことを考え、椀の七分をよしとして、それ以上でも以下でもいけない。

お茶は別段よいものにこだわる必要はない。ではあるが、お茶漬に渋茶は合わない。せっかくの具材の微妙な塩加減が分からなくなってしまう。かといってぬるいのは美味くない。つまり熱すぎると渋くなるがぬる過ぎると食欲がなくなる。ここは70度ぐらいのお茶で作ろう。普段の飲み頃の番茶である。

のせる具材は好みだが、基本は「塩気の濃いもの」。塩引、梅干、魚卵の類がよくあるが、やはり何をおいても塩昆布がいい。ぬめりの減ったご飯は自然と椀のなかで滑らかな円錐形を描く。ここに細切りの塩昆布をのせ、裾野にかけて茶をまわし掛け、最後に一口分ほどの茶を頂上に注ぐ。茶も椀の八分まで。それ以上だと茶ばかりで食べづらく、それ以下だと食べ終わらないうちに水気がなくなってしまう。

いただきます、とおもむろに頂上を崩してしまう人がいるが、これはいけない。具材が茶に浸り、茶のせっかくの緑色がとたんにくすんでしまう。それに食べ終わるまでの具材の配分がうまくいかない。まず手前を切り崩し、三口、そのあと具材を口に運び、その塩気を楽しむ。これは傍目から見ていてもきれいな食べ方だ。そう、子供のころに遊んだ棒倒しの要領だ。いかに具材を茶の中に落とさず食べきれるか。そこにかかっている。茶の風味と塩昆布のうまみが繰り返し口中を襲う幸せ、これを噛みしめているうちにふやけだした昆布がまた新たな食感を生み出す。これがまた旨さを引き出す。

さて変り種のお茶漬として「きんぴら」などはお勧めである。割り箸のようなものではなく、細切りのもので、さらさらとやる。油が強くても、茶に包まれるとしつこさが薄れ、食べやすくなるのでもたれなどもな い。独活などであれば春の息吹を感じながらいただくのがいいだろう。また手間ではあるが、焼きおにぎりをお茶漬にすると香ばしくて食欲をそそる。

この一杯でどれほどの幸福感が得られるかお分かりいただけただろうか。まさにお茶漬様さまなのだ。

追記
お茶漬というと変わった食べ方として、森鷗外の「葬式まんじゅう茶漬」がある。娘の森茉莉がエッセイで取り上げて有名となったが、私も以前貰ったまんじゅうがあったので試してみたことがある。
ご飯の上に、四つに割った葬式まんじゅうを置き、番茶をかける。まんじゅうが茶碗の真ん中に鎮座して、お茶漬というより何かの丼物のようだ。
まず味を確認するためお茶をすくう。まんじゅうの中から餡が溶け出し、色はかなり薄めな汁粉のような風情、口に入れると味もそれに近いが、番茶の風味があるので甘いだけではない面白みが口に広がる。
次にご飯とともに口に運ぶ。水分はあるものの、食感も味もおはぎを食べている感覚なので、恐るることはない。食べたことはないが、小豆粥というのはこういうものなのだろう。
食べ進めるうちに、このお茶漬のネックは「まんじゅうの皮」だと気付いた。この皮、はじめはしっかりとしているが、ふかふかの部分に段々と水分を含み、崩れはしないものの、クタクタになってくる。このクタクタ具合が食感として甚だ悪いと私は感じた。お麩のように、形を失わずしっかりとスポンジ然としていてくれるならまだしも、中のふかふか部分は噛むと口の中でネチャ付く感じがある。コシのない蕎麦にありがちな奥歯でねばつく「歯ぬかり」といったところだ。私の中で「葬式まんじゅう茶漬」は、この皮で評価を下げている。
全くもって食えない代物ではない、だが先を争っても食べたかった鷗外の気持ちが理解できるほどに美味いわけではない。可もなく不可もなくというところか。
これをもし、やってみようという御仁があるなら、塩昆布や紫蘇の実の塩漬けなど、塩気のある添え物を用意することをおすすめする。

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