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吉柯と廣澄

清原局務家。始まりは平安時代中期の清原廣澄とされるが、この廣澄は『尊卑分脉』の『清原氏系図』によると、「陸奥守永見孫 出羽守瀧雄二男」小野吉柯を養父としている。あるいは、儒家の小野吉柯の弟子(『群書類従本 清原氏 系図』)と記されている場合もある。この記事を信じるとするなら、小野瀧雄は小野篁の父である峰守の兄弟とも言われるので、吉柯と篁はいとこ同士ということになる。
一方、『尊卑分脉』の『小野氏系図』には吉柯の名は出てこない。瀧雄の子として、恒柯の名が記されるのみである。小野恒柯は『日本三大実録』「貞観二(860)年五月十八日条に卒伝があり、瀧雄の子として大同三(808)年に生まれと知れる。この時代、奈良から平安初期にかけて、小野氏の一族は記録によく顔を出す。だが、この頃の記録には吉柯の名は現れてこない。
吉柯の名が記されたのは、ずいぶんとのちの時代、一度だけひょっこりと顔を出す。藤原師輔の日記『九暦』(ただし原本はなく、一部を書き写した『九暦抄』が残る)の中に、
「十二日、召史吉柯、給東宮御料位禄四具、内三具家位禄、三具分配、文、」(天徳元(957)年四月十二日条)
とあり、この「史吉柯」が太政官の(大あるいは少)史(さかん)である(小野)吉柯を指すというのだ。
『尊卑分脉』の中で兄弟とされた、恒柯が860年に死去し、吉柯が957年にまだ太政官に仕えていることになる。血縁はともかく恒柯と吉柯の生きた時代には100年余りの開きが生じ、吉柯が瀧雄の息子であることもありえなくなる。無論、吉柯と篁はいとこでもない。


清原氏は天武天皇の皇子舎人親王を始祖とする王氏の一族で、その流には大きく二つあり、三原王(御原王)に列なる流と貞代王を源とする流がある。嵯峨天皇の治世で右大臣まで登りつめた夏野は三原王の流であり、廣澄は貞代王の流であるとする。つまり、清原局務家は貞代王の末裔であるというのだ。局務家とは、太政官少納言局に属する大外記・少外記を世襲した家のことで、中原氏と清原氏がこれにあたる。外記とともに(明経)博士を兼任するのを通例とした。位階は正六位上(博士は正六位下)であるから大して高くはない。
同じ貞代王の末には歌人として名高い深養父や元輔、また清少納言の一族があるが、系図では深養父とその弟の業恒(廣澄の父)のところで流れを異にしている。

            (清原始祖)
舎人親王┳三原王━小倉王━夏野┳瀧雄
    ┃          ┣澤雄
    ┃          ┣秋雄
    ┃          ┗━━━房則
    ┃       (賜清原姓)   ↓養子
    ┗貞代王━有雄━通雄━海雄-----房則┓
    ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
    ┗┳深養父━春光━┳元輔
     ┃       ┗元真
     ┗業恒┳近澄━━┳頼佐
        ┗廣澄  ┗頼隆
          ↓養子? ↓養子
(小野) ┏吉河--廣澄--------頼隆
永見┳瀧雄┻恒柯
  ┣秋雄
  ┗峯守━篁

上の図は『尊卑分脉 清原氏・小野氏系図』に云われる一般的な誤謬を改め、少々手直しを加えたものであるが、親王四世海雄には子がなかったらしく、夏野の子・房則を養子と迎えている。また廣澄も子がなかったので、兄弟の近澄の子頼隆を入嗣させている。清少納言(元輔女)も『枕草子』の二十五段「すさまじきもの」の中に「博士のうちつづき女子生ませたる」と書いているのは、このあたりが頭の片隅にあってのことであろうか。



話を戻すが、廣澄は本当に吉河の養子となったのであろうか。
先に記したように、小野吉柯は生没年は分からないものの、少なくとも天徳年間に生きていたので、「瀧雄二男」の記述は誤りである。また、廣澄の生没年は承平三(933)年から寛弘六(1009)年と知れるから、吉柯とは一世代から二世代の隔たりがある。「養子」「弟子」であったとしても問題ない世代間だが、実際に養子となったかは分からない。吉柯の姉妹が廣澄の母で、父が早くに亡くなったため養育した、というストーリーは描けるが、事実として裏付けは何もないので、不明とするしかない。



ここで改めて系図を見てみよう。

              (清原始祖)
舎人親王┳三原王━━小倉王━━夏野━━房則
    ┃       
        ↓養子
    ┗貞代王━有雄━通雄━海雄-----房則┓
    ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
    ┗┳━深養父━春光━━━元輔
     ┃
 
     ┗━業恒┳━近澄━━┳頼佐
         ┗━廣澄  ┗頼隆
            ↓養子?  ↓養子
       吉河-----廣澄-------頼隆

房則の生没は兄弟の瀧雄(798―863)や秋雄 (811―874)等から推定は可能である。深養父は寛平年間(889―898)から延長年間(923―931)に歌人として隆盛を迎え、身分低いながら一定の評価を得ていた。孫の元輔(908―990)の生年を考えると、文徳天皇が即位した後(850―860ぐらい)の生まれであろう。そう考えると房則は嵯峨天皇が淳和天皇に譲位したころ(823頃)と推定すると生没年のバランスが良くなる。
しかし、そうすると廣澄の生まれはどうか。海雄の祖父有雄は天安元(857)年に從四位上の階位をもって卒した。その卒伝には「父貞代王」「天武五代孫」の文字がある。ゆえに貞代王は天武天皇の子であった舎人親王(676―735)の子ではなく、血縁があったとしても舎人親王の玄孫となる。舎人親王の息子・三原王(不明―752)、三原王の子・小倉王(生没年不詳)、そして小倉王の子が清原夏野(782―837)、そして夏野の子、舎人親王の玄孫が房則である。
有雄が何歳で亡くなったか不明だが、房則を養子に取ろうとすれば、通雄か海雄のいずれかが時間軸の中からはみ出してしまうこととなる。貞代王から房則までの系統はどうもうまく繋がらない。
今回底本とした『尊卑分脉』もかなりの混乱があることは知られているし、元は洞院公定が集めたもので、諸家に伝わるものを補校はしているが、誤謬を検討はまではしていないようだ。この『清原氏系図』もそうらしい。もう少しシビアに年代を追っていかなければならないようだ。


廣澄は元々海宿禰を名乗っていたものを、寛弘元(1004)年十二月賜姓して清原真人に改姓したことされる。この廣澄の本姓であった「海宿禰」とは何か。
調べてみると海宿禰は平安初頭の資料に散見できるのが始めで、それ以前には現れてこない氏族である。はっきりとしたことはいえないが、どうやら海氏の元は「凡海連」らしい。凡海連あるいは大海連(いずれも「おほしあまのむらじ」)と書くこの氏族は出自を丹後国とし、海人族の頭目であったという。かの天武天皇の養育係(=乳母)を務めたこともあり、ゆえに天皇は幼少期に大海人皇子と名乗ったのである。 このことから海宿禰は「あまのすくね」と読むと考えられる。『本朝世紀 朱雀天皇 天慶八年八月十三日 条』に「左史生大海保平。右史生海薫仲。」とあるから、大海氏と分かれて海氏を名乗ったのかもしれない。 この海宿禰の名の多くは官符にみえる。海正澄(天徳四年~応和元年[少外記]応和二年[大外記])、海薫仲(天慶八年[右史生]康保二年[左大史])、海業恒(天慶九年[右大史]天暦二~四年[左大史])、海色澄(寛和二年[右少史])、海廣澄(寛和二年[權少外記])などがそれであるが、年号を見ても 分かる通り天慶年間から改姓する寛弘元年(938-1004)の約七十年に集中している。さらに官職も外記局の役職に偏りが見られる。改姓したのちも外記局の中に海氏であったであろう清原氏は多い。『今昔物語』に見られる「明経博士善澄被殺強盗語」の助教清原善澄もその一人であろう。 つまり『清原氏系図』に描かれている通り、廣澄(父とされる業恒も含め)以下は王氏の清原氏とは違う「別家」であって、王氏の系統は深養父の後裔のみに脈々と受け継がれたが、いつしか衰微して、血族ではないものの同じ清原を名乗る海氏の末裔が、これに取って代わったのであろう。 よく言われる清原姓を「仮冒した」というのは、このことからであろう。そのとき、何があったのか、ちょうど正史も「寛弘元年条」は紛失していて状況が把握できない。

海宿禰はある時期からほぼ見られなくなり(丹波の出であろう相撲に海を名乗る者が見える)廣澄が賜姓した頃を境に、一族の者も改姓をして清原真人となる。王氏の清原とは別であるが、いつの間にか姓が同じであるため混同される。むしろ積極的に結びつきを「かたる」。清原夏野との繋がりを表すため、夏野の子・房則が「海」雄の許に養子に入るというのは、あまりにも出来すぎてはいまいか。



それなら系図を思い切って整理してしまう。

     (清原始祖)
舎人親王┳•••夏野━房則
    ┃     ↓養子?
    ┗•••有雄--房則━深養父━春光━元輔
       (海→清原)業恒┳近澄┳頼佐
               ┃  ┗頼隆
               ┃    ↓養子
(小野)           ┗廣澄--頼隆
永見┳瀧雄━━恒柯----(吉河?)
  ┣秋雄
  ┗峯守━━ 篁


清原夏野が亡くなると清原氏の弱体化は留めようもなく、深養父元輔あたりが名を知られているとはいえ、それは歌人としてで政治的権力からではない。一方海宿禰から改姓した清原一族は、局務家としての足場が固まり始め、夏野流の清原よりも興隆してきていた。かたや消えかかり、片や姿を現しはじめる。似ているものが二つ並んでいると、近くで見ているものには別々と良く分かるが、遠目に見れば一つに繋がっているように見えてしまうということだ。 

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