自己の意志を持て

10/29で梨泰院の悲劇から一年。
流石の流行り好きなみなさんもことの重大さに気づいているようで、「気をつけます」「悲しい」などといったコメントを残している。
今年も例に漏れず、ハロウィンの日に街に仮装して集まる風潮は続いているようだ。結局何が残るのか。記述あるいは口述試験を行ってみたい。

韓国旅行願望があるなら

韓国に行くなら、この悲劇を単なる事故で片付けるべきではない。警戒の心と、時には命を守るために混雑を避ける勇気が必要だ。
「せっかくきたのにここは譲れない!彦摩呂は引っ込んでな!」
それを聞いた家族や伴侶はどんな気持ちになるだろうか。胸に手を当て考えてみれば、まともな人は泣く泣く諦める気持ちを持てるはずだ。しかし、見ている限り流行りに流され、それを追いかけることに日々を費やす人たちはそんなことすらしないだろうと考えてしまう。
利己的、逃すまい、暴言、子ども返り…彼らを一括りできるキーワードだ。
日本人犠牲者ばかりに目が行きがちの世で、韓国人の俳優が死んでいることにも目を向けて欲しい。その人のファンでなくても、韓国アイドルをまともに推してまともに生きている人々なら「こうはなるまい」「悲しませないように生きよう」の気持ちで踏みとどまれると私は信じている。多くのお金を費やし、厳しいパスポート申請を潜り抜けてきた気持ちは理解できるが、死んでしまえば夢は叶わない。愛する人は咽び泣き、生きる意味を失う。そう考えたら流行りにとりあえず乗って人混みに突っ込んでいくのって、バカらしく思わないか?
近所で「トリックオアトリート」してる子どもたちの方が可愛くてまともに見えてしまう。家でかぼちゃ料理食べて、愛を育みなよ。私はそう思ってしまう。

なんでハロウィンの日に騒ぐん?

そもそも、騒ぎたい時に騒ぎゃいいのになんでハロウィンが特別みたいになるん?と思ってしまう。
ハロウィンはかぼちゃ、トリックオアトリート以上の何物でもないと言うのが私の持論だ。何でわざわざ無意味に街に出て騒いでさまざまなリスクを負いにいくのかが全く理解できない。
結局外に出ても片輪走行とかするだけで何がしたいのかわからない。仮装なら愛する人の前だけで見せりゃいい。普段の何気ない1日と同じように過ごすからこそ、余計に思い出深くなるのではないだろうか。
ただの10/31、名ばかりのハロウィンと割り切って過ごす奴が今の時代ではとても輝いて見えるよ。

「日本ではあり得ない」という思考を捨てろ

「あれはあくまで韓国の出来事。日本ではないない〜」とかいうやつはちょっと高くかいすぎている。
楽観的なのは切り替えが速く、ウジウジ悩まない強みがある一方で、突発的に後先考えない行動をしてしまう弱みにもつながる。
現に、渋谷も狸小路も、全国各地のあらゆる繁華街は「集まるな、家でハロウィン」と呼びかけている。つまり、日本のどこかで梨泰院のような事態になりうると言っているのだ。
にもかかわらず「なんか、遊びたい」というほぼないに等しい理由を述べている人たちもいる。
まあ、一年に一度なのは事実だし、堂々と仮装できるのはその日限りだ。でもさ、理由がないなら来なくてよくね?承認欲求を満たしたいなら、自分から満たせる環境を切り開き、作る気概を持て。口では軽々しく言えてしまうが、人に甘えないで自分から欲望を叶えていく精神があると、面接官の目がハートになるだろう。
「そればかり着地点にしてるけど〜」とか言うなら、前ならえで企業勤めしないと誓えるか?どうせ将来多くの人々は会社員の道を歩むんだから、そうなれるように準備しとけばいい。後で後悔の八つ当たりをしないためにも。

まとめ

誰よりも先に苦しめ。切り開いた強固な地盤の上で好きに笑え、楽しめ。
うさぎでなく亀であれ。あぐらをかいた🐎🦌達を横目に自分の道を行け。
文句があったら納得する理由で述べまくれ。そのスキルが皆に春をもたらすだろう。
心も大人に。子どもじみたことに自分の原点が隠れている。決してすぐに笑うな。
「我が国ではない」ではなく「我が国でもあり得る」。運転と同じ考え方をしよう。
もっと大物が亡くならないとわからないのか。そんなはずないだろう。現に惨さを理解しているんだから、時には欲望を抑える練習をして、自分で掴み取った春の先で思う存分輝け。

ミーハーは時に落とし穴。自分の意志を強く持ち、思い通りの世になるようにあらゆる合法な手を尽くして理想郷を掴み取れ。

合掌。
Avoid going to street such as Itaewon,Shibuya on October 31.
二度と悲しむ顔を見せないために。

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