花咲病棟のアリス|(1)ネモフィラ

母は花に包まれて死んだ。だから私は同じように、全身を花に埋め尽くされて、消えるように死にたい。そして花嫁のブーケみたいに、神様と結婚式をするのだ。その神様がだれかなんて、もうとうの昔に忘れてしまったけれど。

父と出会った時、母の左目は、すでにネモフィラが咲いていた。青く白い、美しく澄み切った花だ。父がその咲いた花に触れると、母は恥ずかしくなって俯いて、父の頬にキスをした。

「触ることは楽しいよ」

「いやです、恥ずかしいのだから」

「だけれど綺麗だよ」

「こんなもの気持ちわるいです」

「人が何と言おうとかまわないよ」

「よくないです」

「君は美しいよ、信じていいよ」

父が美しいと言ったから、母は彼の言う美しさを、確かに信じていた。父が花の向こうにどんな姿を見ていたのかは分からないけれど、その時父にとって、母の姿は確かに美しく見えた。

たとえ、左目から青く白い花が咲いていても。

ネモフィラの公園は、高く聳える丘があって、その丘は広く美しく、また上に登っていくと鐘がある。母はもうそれがいったいどんな鐘なのか忘れてしまったけれど、父と一緒に鳴らすその鐘は確かに幸せの音色がした。

「これが幸せというものでしょうか」

「幸せがどんなものなのか僕にはわからないけれど」と彼は前置きをして話し始めた。

「そうですね、どんなものでしょうね」と母も考えた。

「君がそうだと感じているのなら、君はその感覚を信じていいし、僕は君のその感情を、守るためにこれから生きたい」

「チャペルみたいですね」と母は照れながら返した。

母が死ぬ時、ネモフィラに埋もれながら死にたいと母は言った。だから父は静かに母が眠るその教会で、花を育てている。母が死んでからは、父は仕事をやめて教会に入った。いまでは教会で色んな人の悲しみを聴いている。

「ねえお父さん、お母さんは幸せだったかな」私は教会で小さな箱みたいな告解室の中で、父に聞いてみた。

「あたりまえだろ、母さんを幸せにするためにあの日まで生きていたんだ」父は笑いながら言ったので、少なくとも母のことを愛していたと思う。

私の眼から花が生えた時、私は父に連れられて病棟を訪ねた。病棟の名前もそこがどんな場所なのかも、詳しく知らないままここまで来た。そうして私は母の日記を読み返す。母もいつか、この病棟にいたのだ。

花咲病棟、ここは、みんなからそのように呼ばれている。


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