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『Nameless Story』①

「自衛官 久保史緒里」


あの日は人生で1番走った。

人生で1番怖い夜だった。

それでも…

あの朝、屋上で見た外の景色は、人生で1番綺麗だった。



「今日はここまで。各自部屋に戻り、明日の訓練に備えて体を休めるように」

新内1佐の号令で今日の訓練が終わる。

「はい!」

敬礼で1佐を見送る。やっと地獄の訓練が終わった。

「疲れたぁ…」

その声も弱々しい。宿舎まで戻るのも一苦労だった。

「美月、お疲れ様。早く宿舎に戻ろ」

「久保は元気だねぇ…。おんぶしてよ!」

「そんな体力は無いよ。ほら歩いた歩いた」

憧れの自衛官になってから、訓練に身を捧げていた。いつか来るその日に備えて、今日も泥だらけになっていた。

「それにしてもさぁ、新内さん私たちに厳しすぎだよねぇ」

「女だからって私たちが楽する訳には行かないでしょ?新内1佐の優しさだよ」

最年少で大佐まで上り詰めた新内さん。裏では女帝とまで呼ばれている。

「優しさねぇ…。若い私たちを妬んでたりして!」

本人に聞かれたら…そう思った頃にはもう遅かった。

「確かに若い体力と、その怖いものなさは羨ましいわね」

美月の顔は真っ青だ。

「そ…その…」

言い訳する時間など与えてくれない。

「風呂掃除。久保も同罪ね」

そう言い残して去っていった。私は美月を睨みつける。


「ごめんってばぁ〜」

「全くもう…」

誰もいない風呂場に声とブラシの音が響く。

美月と2人で罰を受けるのは初めてでは無かった。最初の2回より後はもう数えていない。

「美月はさ、何で自衛官になったの?」

親友の私から見ても、美月は自衛官というよりもアイドルの方が天職だろう。

「ブルーインパルスがかっこよくてさ」

「分かる。あの隊列飛行は何回みても感動するよね!」

掃除の手はすっかり止まっていた。

「そういう久保は何で自衛官になったのさ」

聞かれた瞬間、胸に冷たいものが広がる。

「それは…」

私はあの日の記憶の蓋を開けた。




卒業式を翌日に控えた3月11日。小学生生活最後の授業が終わろうとしていた。

でも、いつもとは違った。

凄まじい地鳴りが聞こえ、間髪入れずに教室が揺れた。

「みんな!机の下に隠れて!」

先生たちの声量にその本気度が伺えた。

しばらくして揺れが収まると、私たちは直ぐに避難の準備をした。

「早くあの高台に行くぞ!」

避難訓練通りに私たち6年生は1年生の教室に行く。1年生の教室はパニック状態だった。

「みんな落ち着いて!」

先生の声も通らない。その時、私はさっきの地震とは違う轟音が聞こえた。

「さぁ、しっかり手を握って!」

廊下の窓の外から見えたのは迫り来る海だった。

私たちの通っていた小学校は沿岸部にある。もう高台に逃げる時間はなかった。

「早く屋上に逃げろ!」

そんな先生の声よりも先に1年生を抱えて屋上に向かっていた。

「いい、絶対にここから出たらダメだよ!」

屋上の倉庫に1年生たちを避難させる。私たちは他の学年の教室に向かった。

階段を何往復したか分からない。一息ついた頃にあの轟音が校舎を襲った。

「うわぁぁぁぁ」

校舎が揺れる。ガラスが割れる。倉庫の中は阿鼻叫喚を極めていた。

揺れが収まっても状況は全く分からなかった。

私たちは地震と津波に襲われた。平穏な日常は一瞬にして崩れ去った。

「怖いよ…お母さん…」

「暗いよ…寒いよ…」

「大丈夫、絶対に大丈夫だからね」

その夜、私には震える下級生の手を、ただ握ってあげることしか出来なかった。


「ん…」

気がついたら外はもう朝焼けに包まれていた。

割れた窓から朝日が差し込む。私は恐る恐る、屋上に出た。

「えっ…うそ…」

校舎の辺り一面が水に浸かっていた。いつも通っていた通学路も、沢山遊んだ校庭も、今は水の下だ。

風ひとつ吹かない水面に朝日が反射する。どこか幻想的で夢のようなその風景、

「綺麗…」

不思議と、そう呟いていた。夢であってほしかった。

太陽が高く上がる頃に自衛隊のヘリコプターが救助に来た。

低学年から救助される。私は生徒の中で最後まで屋上に残っていた。

「あなたで最後、よく頑張ったわね」

自衛官の人のその言葉に、塞がっていた涙が溢れ出す。

強がっていた私を自衛官の人は優しく抱きしめてくれた。

ヘリコプターの中で今回の地震の全貌を知った。

それを聞いてもまだ信じられなかった。未曾有の大災害の中に私はいた。

それからの人生も色々あった。大変なことを数えたらきりがない。

それでも私は、屋上であの人の温もりに触れたときから、自衛官になろうと決めていた。



「…暗い話になっちゃったね」

少し雰囲気を暗くしてしまった。あの美月が黙り込んでいる。

「ねぇ…」

「なに?」

「明日からの訓練も頑張ろうね」

「もちろん、美月に言われなくてもね」

風呂場から自室に戻る。時刻はもう23時になっていた。

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