私から見たおばあちゃんの記録(4月まで)

おばあちゃんは元気だった。
足は悪くなっていたけど頭はとてもしっかりし
食べることが大好きだった。

今年に入ってからは数えるほどしか会ってなかったと思う。
2月、コロナが流行り始め、おばあちゃんと直接会うのを避けていた。

3月13日、おばあちゃんがこけた事を父がLINEで知らせてきた。

「おばあちゃん、昼に転んで骨折しました!今、病院に来ています。命には全く心配無い様子」

高齢者の横転には気をつけろと言うが、命には心配無いというの安心した。

おばあちゃんは一人でベッドの寝起きが出来なくなった為トイレに行きたい時など電話で知らせてくるようになった。父と母二人がかりで補助していたが、ある時父が手が離せない状態だったので私が行った。もうコロナとか言ってらんねーしなって。
少しでも身体が曲がると激痛らしいのでおばあちゃんの腰から背骨を中心に支えて骨折した箇所になるべく負担がかからないよう気をつけた。
本当はおむつをしてしまえば良いのだが何せ頭がしっかりしているものでおむつで用を足すのは難しいらしい。

この時が家の中で会った最後だ。
それからお世話になってる福祉の人へ相談し、この状態家で介護するのは不可能、さらには複雑な骨折の仕方をしていると分かったので入院は必至だった。

この時期なので、病院はどこもパンパンだけどあそこの病院ならいけるかもと、福祉の方の紹介で病院Aに入院が決まった。

あっという間におばあちゃんは入院していき、骨折の手術をした。
3月24日 手術の日
お昼に父の携帯を介しておばあちゃんと少し会話をすることが出来た。
手術前なのでお水も飲めない。痰が絡んで大変。前日の夜はのませてもらった。もうちょっと飲みたいというと明日手術だからダメって言われちゃった(てへ 的な感じに)

17:36に父からLINEにて
手術成功。意識明瞭!
と連絡があった。
高齢者の全身麻酔の手術は体力がもつか心配だったので本当にほっとしたことを覚えている。

この手術の直後から、コロナの関係で面会が全く出来なくなったらしい。

手術は成功したし、コロナが怖いこのご時世、病院にいた方が安心かなと思っていた。
しかし知らないうちにおばあちゃんはとても弱々しくなっていた。
聞けばご飯はほとんど口に出来ていないし看護士の対応もとても悪かったようだ。

4月4日
夜家に一人でいた。父と母は出かけていた。
家に電話がかかってきて、取るとおばあちゃんだった。
「ことちゃん?おばあちゃんです。腰がすごく痛くてクッションの位置をずらして欲しいのだけど、ナースさんを呼ぶ呼鈴が落としちゃったのか見当たらなくて…」
聞いたこともない消え入りそうな弱々しい声でたどたどしくおばあちゃんは一生懸命伝えてきた。
「大丈夫!?すぐパパに伝えて病院に連絡して看護士さん来てもらうようにするからね!待っててね!」
それからすぐに父に連絡してもらった。
するとほどなくしてまた電話がかかってきた
「ことちゃん?あの、ナースさん来てくれたんだけど全然治ってなくて…」
この辺りですか?という確認もなく、ありがとうという声かけをする間も無くすぐに戻ってしまったとのこと。
また父に連絡してもらった。
おばあちゃんの聞いたこともないような弱々しい声に、
このままこの病院にいたらおばあちゃんが大変なことになる!
と思った。
父と叔母もその気持ちは同じで
なんとかおばあちゃんをこの病院から脱出させないと!と動こうとしたのたが
退院させたいと相談しても医師の許可と家での介護の環境が確認できないと簡単には退院させられないと言われた。
最初入院した時、父と叔母はおばあちゃんに
自分で寝起き出来るくらいまで回復しないと退院出来ないからね、頑張ってね!と言っていたらしい。後から考えるとそれは結構重荷になっていたのではと反省して、動けなくても大丈夫だよという方針でいくことにしたと父が言っていたのを覚えている。

4月16日
おばあちゃんストレスで十二指腸に穴が空き緊急手術。
この日から完全に何も食べれなくなる。

4月19日
脈拍が190まで上がり転院

結局おばあちゃんは、脈拍が190まで上がったところを週に一回だけ当番で来る循環器専門の先生に拾ってもらい、このままでは命の危険があるということで、その先生がいる循環器がある病院に転院が出来た。
思わぬ形で病院Aから脱出出来たのである。

おばあちゃんは救急車で転院をし
救急の診察室から入院の部屋へ移動する際なら
一瞬面会出来るかもということで
途中一人暮らししてる姉も拾って家族全員で会いに行った。叔母夫婦も来ていた。
父と叔母だけおばあちゃんの側に長いこといれたがそれ以外は本当に一瞬しか会えなかった。
コロナが怖いから触ってはいけないと思ってたけど寝転んだ状態で運ばれてきたおばあちゃんが手を差し出してきたので握った。全員一人ずつ握っていった。
おばあちゃんの手はとても温かくエネルギーに満ちてる感じがした。
今夜が1つの山とも言われていたがこれはきっと大丈夫だ!と思った。
そして無事次の日は回復するんだけども
姉はこの時会ったのが最後となる。

4月23日
心臓は落ち着いたものの下血症状が出たためお世話になったことのある総合病院の消化器内科へ転院
何故かこの病院は1つだけ家族に配られる面会証を付けていれば1人だけ病室に入れるシステムだった。オムツなど身内が用意しないといけないのでそういう備品を足したりする際に使うようだ。

4月24日
いとことおばあちゃんの弟が会いに行く
病院から話があると呼ばれ、叔母夫婦が行く際にいとことおばあちゃんの弟も一緒に行って面会した。叔母夫婦が話を聞いている間、おばあちゃんが弟に向かって、しっかりとした声で名前を呼び
「赤穂へ帰ろう」
と言ったのだと言う。赤穂はおばあちゃんが戦前に家族と暮らした楽しい思い出がある地らしい。お父さん、お母さん、それから先に亡くなった妹がいたと。妹はお化粧してとても綺麗だったと。
ちなみにおばあちゃんはしばらく声を出しておらず、空気のような声で喋るか、指を使って文字を書き意思疎通を取っていたらしい。
あとからそのことを聞いた叔母が
「お母さん私にも声聞かせてよ」
と言うと
「最後の声」
と言ったそう。

4月29日
父と地元の神社に行き、おばあちゃんにお守りを買った

4月30日
だんだん状態は安定してきており
GW明けから食事を取っていきましょうと医師から言われる。
この日、おばあちゃんはアイスクリームを食べたいと言ったと、父から聞いて私は嬉しい気持ちになった。

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