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【実家の介護未満】死ぬとき何思うかゲーム 2020.3.20

2022年10月20日。今日は母の四十九日。先週末に父と妹と夫と四人で納骨式を済ませた。今日は初めて一人でお寺にお参りに行く。今も母がお骨になりお墓に入ったなんて信じられない。母に供える花を買うたびに思う。母だって、生前自分が気に入って購入したお墓とはいえ、まさか一番乗りになるとは思っていなかっただろうな。このお寺はビルになっていて、厳かにカーブした形状の摺りガラスで仕切られたATMのような「参拝口」がいつくかある。参拝口でカードを差し込んでお墓を呼び出すシステム。さながら立体駐車場。窓が開いてお墓が現れる。お花もお焼香台もせっとしてある。浄化のためか小さな噴水に水が流れている。参拝を終えたら窓の横のボタンを押すと窓が閉まってお墓はどこかへ消える。母は元気な頃から「わたし死んだら、そこら辺をふわふわしてるわよ。」とよく言って娘たちを怯えさせたが、亡くなってからほんとにそんな感じもする。Wi-Fiが飛んでる感じ。だから、母と私達にとって、お墓はアナログ回線であの世とこの世をつなぐようなものなのかもしれない。

2020年の日記より

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今晩、妹が留守なので、母の様子を見に実家にいってきた。

補聴器をなくしてしまって耳が遠くなっている母は、テレビの音を大きくしているのもあって、私が玄関で「こんにちはー!」と大きな声で言っても案の定、出てこない。

構わず、ずかずか入っていくと、台所のカウンターの向こうに母がいる。(何してるのかしら)と思ったら、なぜかつっ立ったまま夏みかんを食べていた。

気づかないから、大きな声でこんにちは!と声をかける。
「あら来てくれたの?もう来ないかと思ったわ。」と、言ってる母に近づくと、江頭ちゃんを思わせる上下ピチピチ真っ黒のスポーティーないでたちだったから、ちょっと笑った。
今日は午前中にデイサービスで運動してきたからだな、と納得。

さっさと台所に入って、夕飯の準備をする。大体いつもわたしは要領悪く、時間が無くなってバタバタと帰ることになるのだが、今日はおいしい焼き鳥を買ってきた。それで焼き鳥弁当にするつもりだったから、楽勝だった。まだ四時前。

これ、夜の御飯ね。と言ったのだけれど、母は、「じゃ、いっしょに食べようか!」なんて言って、テーブルにもっていこうとする。もしかして、お昼をまだ食べていないのだろうか?さっき聞いたら、もう食べたって言ってたけど・・・。

まあ、見た感じどうやらお腹が空いている様子だったので、パンにチーズと炒り卵を乗せておやつにした。みつまめの寒天があったから、デザートにしようと思ったが、蜜がない。何か甘いものはないかと探したが見つからず、仕方なく寒天にリンゴジュースをかけて二人で食べた。

「おいしー!」だって!たいてい文句が先に出てくる人なので、意外に気に入ってもらえてよかった。やっぱりお腹すいてたのかも。

テレビのワイドショーでは、オーストラリアのカンガルーやコアラが、火事の被害から保護されている様子が流れていた。それを見ながら
「今日はNちゃん(妹のこと)は帰ってこないのよね」
「Nちゃんは日曜日に帰ってくるのね」
「Nちゃんは明日帰ってくるのかしら」
などと、引っ掛け問題レベルの似たような質問をしてくる。
「Nちゃんは、明日の夜、帰ってくるよ」と答える。すると、
「え、そうなの?明日は何曜日?」
「土曜日だよ。」
「そうなの。じゃ、今日は何曜日なの」
「今日は金曜日じゃん。」
「そうね。じゃあ、Nちゃんは今日帰ってくるのかしら」
「今日は帰ってこないって。明日だよ。」
と言った感じで、永遠と続きそうだったから、
紙に、今日の献立と、明日の献立を書いてもらい、明日の部分に「Nちゃんが帰ってくる」という一文を書いてもらう。
書いても何にも変わらないけど、私が帰った後、見てくれたらいいなと思う。

そして、わたしは母の気分を変えようとして
「ねえ、ちょっと未来のことを考えるゲームしようよ」と誘った。暫くグズグズ言っていたが、やっとやる気になった。

「じゃ、ゲームだからね。そんな振りでいいからね。ではまず、今、ママは大満足して死ぬところだとします。」
「えー!」
「死ぬとき大満足して死にたいよね?」
「そりゃそーよ!」
「じゃ、そういう気持ちで、私の質問に答えてください。ママが生きてきて一番よかったことってなに?」
「そうね、ぜーんぶよかったわ。」(内心驚く私!そりゃいいね!)

「じゃあ、こうしたらよかったなーってことはある?」
「そうねぇ、私はもっと「そういうこと」を学ばなきゃいけなかったなぁって思う」
「そういうこと、って何?」
「私はほら、結構恵まれてきたからさぁ。努力とかそういうのしてないから。」
「ふうん。」
「あと、おばあちゃん(母の母)のこと、もっと理解してあげたらよかったなと思うの。」
「そうなの。」
「おばあちゃんはさ、頑張り屋さんだったからさ、戦争の時なんか私たちのことを何とかして守ってくれたのよね。」

それから、母は戦争時に祖母と疎開した時の事を話してくれた。
母の実家は浅草で帽子などを作る小さな工場をしており、自由人の祖父よりも、祖母の方がおかみさんとして采配を振るっていたそうだ。だが、戦争が激しくなり、祖母だけまだ小さい母と伯父を連れて、鎌倉の方に疎開した。でも、そこには店も畑も何もなかった。それで祖母は、風呂敷に着物やなにか金目の物を包んで背負い、食料と交換してもらいに行くのだった。家に帰ってきた祖母が風呂敷を開くと、コロン、コロン、と小さなサツマイモが出てくるのだという。(お芋かぁ)って思ったそうだ。そのお芋を蒸かして干すんだって。祖母は鶏を飼って卵をとったりもしたという。

着物を売るといっても、いい着物は売れないんだそうだ。誰も絹なんか着ないから、綿の着物しか売れない。でも、もともと祖母はおかみさんでおしゃれだったから、それなりにいい着物しかないので困ったという。

その後、鎌倉から沿岸の炎が見えるようになって(ここらへんは事実はどうなのか?)、一家はもっと遠くへ疎開することに決める。幸い母の子守をしていたお手伝いさんのご実家で受け入れてくれることになった。

山形の疎開先は浅草かは比べたらかなり田舎だった。まず言葉が全く通じない。そして母たちはよそ者だから子どもたちからよくいじめられていた。けれど、そこの地主さんと知り合いになってよくしてもらってからというもの、村の人とは違った世界を知る。そのころは地主さんと普通の人たちとの格差が激しく、まったく別世界で生活していたのそうだ。

御殿と呼べるようなお屋敷に住んでいる地主さんは、東京の話を聞きたがった。ご子息は学があり、他の村の人たちとは違った生活様式だったらしい。
そして、祖母が持っている「糸」が海路を開いた。東京の仕事で使っていた糸は、その当時とっても貴重な物だった。村の女性はたくさん繕い物をするのに、糸がなかなか手に入らない。それを知って祖母は祖父に頼んで糸を沢山持ってきて、みんなに譲ることにした。すると、たちまちのうちに「糸を持ってるおばさん」として有名になり、重宝され、なんでも望むものが手に入るようになった。「あれが欲しい」と祖母が言えば何でも誰かが必ず持ってきてくれるのだそうだ。

と、そんな話を聞いたのは実は私は二回目だったが、初めてのように聞いて楽しんだ。そのころの体験談は面白い。たしかに、母は思い出の中でそれほどの悲劇にも合わず、そんな祖母の元で優しい伯父(母の兄)にもかわいがられ、疎開先を紹介してくれたお手伝いさんの娘と仲良しになって、割と幸せな時代を過ごしたそうだ。

長いけど面白いエピソードだから書きました。

さて、わたしは自宅にもどった。さっきから、三回同じ内容の電話がかかってきた。
「今日はNちゃんは帰ってこないから、鍵を閉めて寝ていいのよね?」
「うん。そうだよ。」
って会話×3。三回目は「うん。そうだよ。でも、いつでも鍵かけて寝ていいんだよ。Nは鍵持ってるからね。」と言った。
「あ、そうか!」と言ってた。
幸せな子供時代を過ごした母。おやすみなさい。

2022.10月 追記

母は亡くなるとき大満足だったのだろうか。もしそうだとしたら、それは亡くなる前日に、父と妹と私と会えたからなのか、それとも苦しい晩年を乗り越えたからなのか。あたりまえだが、本人しかわからない。

認知症になってからというもの、いつも目に見えないなにかと戦って必死に頑張っていた。頑張らなきゃダメなのよと言っていた。苦しくて、寂しそうに見えた。母は「そういうこと」も終えたのだろうか。

亡くなる前日に会えた時、もう母の意識はなかったけれど枕元で「ママありがとう」と言った。そして「大丈夫だよ。ほんとによく頑張ったね。偉いね。」と言って頭を撫でた。きっと妹は母に近すぎて、悲しすぎるだろう。父は何年ぶりかで会えたから、もう心がいっぱいだろう。だから、わたしが祖母の代わりにそう言って、頭を撫でてあげたかった。

そしてそれとは別に、人生を完走しようとしている母を見て、この人に産んでもらったからわたしは今生きているんだと実感した。わたしは第一子だから、きっと初めてのことで、大変な思いをして、たくさん希望を持って産んでもらったんだと思う。それなのに、ときどき自分を大切にしていないことがあった。そのことを悔いた。その身をもって大切なことを教えてくれた人。ありがとう。

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