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聖書物語⑤(続き)キリスト教会って、何をするところですか?

タイトル 「キリスト教会って、何をするところですか」
聖書箇所1Cor. 15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
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先週は教会の成り立ちについてお話ししました。イエスが復活したあと、聖霊がペテロたち弟子たちの上に下りました。神の回復の働き、神の王国の建設は、エルサレムの神殿ではなく、イエス・キリストの弟子たちから始められます。教会から始まるのです。聖霊が弟子たちに下った時、弟子たちは様々なことばで、イエスの物語を話し始めました。神の救いはユダヤ人だけでなく、あらゆる人々へ届きます。
このように、クリスチャンは、イエス・キリストの教会は、神の王国の建設にかかわるように、神に召されています。ペテロやパウロは、イエスの十字架と復活を語りました。それは、イエスの十字架と復活を通して、神の王国が到来したことを知らせるためです。それを福音と言います。しかし、クリスチャンのすることは、「イエスの十字架と復活を通して、神の王国が到来しました」ということを話すだけにとどまりません。
イギリスの神学者で、聖公会の司祭でもあるN.T.ライトは、神の王国のために働くとはどういうことかをこのように言っています。
「愛と感謝と親切からなされるあらゆる行い。神の愛によって引き出された、また神の創造の美を喜ぶことで生み出されるあらゆる芸術や音楽。思い障がいのある子どもに読み書きや歩行を教えるのに使うすべての時間。同胞である人間をケアし、養い、慰め、支えるあらゆる行い。さらに人間以外の被造物を世話する行為。そして、もちろんすべての祈り。御霊に導かれた教え。福音を広げ、教会を建て上げ、堕落ではなく聖さを受け入れ、体現し、この世界でイエスの名を讃えることになるすべての行為-これらはみな、復活の力を通して神がいつの日か建て上げる新しい創造の中で用いられるのだ。それが神の宣教(ミッション)の論理である。」
しかし、神の王国を完成させるのは、神です。人間を通して、神はご自身の働きをなさいます。決して神さまの働きに手を貸しているということでもありません。今この配信をご覧いただいている皆さんは、神の王国の完成を目にすることはないでしょう。パウロはこう言います。
1Cor. 15:58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
私たちが、愛と感謝と親切からなされるあらゆる行いが、主にあって無駄にはなりません。ボランティアをする人もいるでしょう。家族を愛し、ある時は自分を犠牲にして、家族に仕える人もいるでしょう。そういう愛の行いは、神さまが知っているとか、見ているとか言うかもしれませんが、実際はそれ以上です。愛と感謝と親切の行為は、神の王国の一部となるのです。言うまでもありませんが、男性は外で仕事をし、女性は家を守るかのような家父長的制度を肯定してはなりません。えてして、無意識のうちに、教会もその文化に相応しいジェンダー役割を男性、女性に押し付けるか、無批判にそのジェンダー役割を教会でも再生産してしまうことがあります。
天満レインボーチャーチは、LGBTQの方々、女性の方々、教会で傷ついた方々のための教会です。天満レインボーチャーチは、広い意味で神の正義を実現したいと願っています。人間の歴史を振り返って、キリスト教会やクリスチャンが関わった素晴らしい出来事は、18世紀のイギリスで制定された奴隷貿易禁止法です。奴隷貿易禁止法のために、ウィリアム・ウィルバーフォースというクリスチャンの国会議員が尽力しました。そして、ウィルバーフォースの助言を続けてきたのが、ジョン・ニュートンという牧師です。ジョン・ニュートンはアメージンググレースの作詞者として知られています。イギリスの奴隷貿易禁止法は、1862年のアメリカの奴隷解放宣言へとつながります。しかし、これでアメリカの人種差別が無くなってしまったわけではありません。それから100年後、キング牧師が公民権運動を率います。そして、21世紀にオバマ大統領が誕生します。しかし、女性はどうでしょうか。LGBTQの方々はどうでしょうか。女性、LGBTQは偏見と差別にさらされてます。これは社会的、社会構造的な問題です。女性はみ言葉を語ることや教会のリーダーから遠ざけられています。
イエスが語った福音とは、「イエスの十字架と復活を通して、人間を奴隷状態に留め置く罪の世界から私たちを解放しました。今、私が打ち立てた神の王国の民となりなさい」ということです。この中には、女性、LGBTQの人間性を奪うような社会の変革を含んでいます。しかし、声高に社会の変革を求めても意味がありません。なによりも大切なのは、教会が神の王国、つまりすべての人が愛と感謝と親切からなされるあらゆる行いによって結ばれている場所を作るために努力していなければなりません。「愛と感謝と親切からなされるあらゆる行いによって結ばれている場所」を作るには、意図的な努力が必要です。
私はトラウマからの回復のミニストリーをしています。そのミニストリーは最大で12人のグループで行われます。参加者には自分の心の傷を語っていただきます。その際に、参加者が約束することは、「人の話に割り込まない」「アドバイスをしない」「聖書の言葉で人をさばかない」などです。こういう約束事がないと、私たちは平気で人の話に割り込んだり、勝手にアドバイスをしたり、聖書のことを教えはじめたりします。こういうことを避けるためには、意図的な努力が必要です。教会に行き、説教を聞き、祈祷会に参加し、聖書の勉強会に出席したら、自動的にできるわけではありません。意図的な努力が必要です。
イエスが語った福音とは、「イエスの十字架と復活を通して、人間を奴隷状態に留め置く罪の世界から私たちを解放しました。今、私が打ち立てた神の王国の民となりなさい」と申し上げました。その福音を語られるとき、教会はこのようなメッセージを語ることになります。
「さあ、お入りなさい、パーティーにおいでなさい。そしてあなたの過去についての赦しと、神が用意しておられる驚くべき未来と、現在にある召命を見出しなさい」 N.T.ライト(驚くべき希望)
しばしば、教会では「あなたは愛されている」「あなたは神の目に効果で尊い」「みなさんを歓迎します」ということが言われますが、しかし教会生活を送っていると、そこに居づらさを感じたり、自分は価値がないのだと更に感じさせられることがあります。神が招いておられるパーティーとは、無意味にニコニコしていることではありません。むしろ、この世界の中で、不当に扱われたり人々に、神に自分の気持ちを言葉にする機会を提供するということです。聖書には、神への不満を語る詩篇が数多くあります。そして、教会はそのような人々共に悲しむのです。そして、神が召しておられること、例えば、讃美すること、絵を描くこと、貧困にあえぐ人を助けること、
良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか。(口ーマの信徒への手紙10章15節)
Rom. 10:17 ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
 
子供たちに本を読んであげること、そんな神の働きに気づいたときに、教会皆で喜ぶことです。

教会は、「イエスの十字架と復活を通して、人間を奴隷状態に留め置く罪の世界から私たちを解放しました。今、私が打ち立てた神の王国の民となりなさい」と語ります。これを伝道と言います。しかし、この伝道は、さきほど上げた神の働きと共に行われる時、最も美しいものとなります。少なくとも、私はこのように信じています。
聖書物語と題して、神の創造から始まった神の物語は、現在の教会の役割まで来ました。私たちの行うことの一つ一つが無駄にはなりません。将来に完成する神の王国の一部となります。皆さん、素晴らしいと思いませんか?ご覧になっている皆さん、天満レインボーチャーチの働きにご参加ください。

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