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暴力の時代に生きるということ

暴力の時代に生きるということ
みことば:Matt. 26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「をもとに収めなさい。を取る者はみなで滅びます。
 
8月14日を迎えました。明日は終戦の日。その前に広島、長崎の原爆投下の日がありました。日本人にとって、民族として、国家として忘れられない歴史として記憶に残っています。私は今55才ですが、原爆、終戦といいますと、甲子園の高校野球とともに思いだされます。長崎の原爆投下の時間、8月15日には正午になると、プレーを止めて、サイレンを鳴らしました。明日も同じように行われると思います。
現在の日本人の多くは、日中戦争や太平洋戦争を知りません。私の母は1945年生まれです。戦争の記憶はありません。とは言うものの、戦前・戦中から始まる日本の歴史はトラウマのように日本人の心の中に留まり続けています。憲法第9条、自衛隊、在日アメリカ軍、喉に刺さった魚の小骨のように、何とも言えない違和感を抱えたまま、戦後の77年が過ぎました。
私はフィリピンのミンダナオに4年ほど暮らしましたが、兵隊さん、自動小銃、ライフル、装甲車、道路わきに作られた軍と警察のチェックポイントを、そこらじゅうで見ることができます。兵隊さんが暴力的であるというわけではありませんが、平和な生活とは裏腹に、暴力の世界もまた現実でした。21世紀になり、日本を取り巻く環境も変わりました。ロシア、中国、北朝鮮のような専制国家があり、核兵器を保有しています。
80年前、戦争に突き進む日本に抗った人々、クリスチャンがいました。その中で1941年、政府の強い要請、つまり強いお願いにより日本基督教団が設立され、戦時体制に協力することを選びました。戦後、日本のキリスト教の団体では、戦争責任についての告白が発表されました。
今日のタイトルを、「暴力の時代に生きるということ」としました。今日の話は、戦争というよりは、普段私たちが経験する暴力に私たちはどう向き合うかという話ですが、その向き合い方は戦争が起こった時、日本が攻撃された時にも適用できると思います。
戦争責任についての告白は発表されましたが、ただ戦争に反対し、日本国憲法9条改変に反対すれば、平和がやってくるわけではありません。世の中は暴力に溢れています。差別や偏見に溢れています。そして、残念ながら教会も例外ではありません。暴力は爆弾や腕力だけではありません。暴力的な社会システムによって、私たちは傷つくのです。
Matt. 26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「をもとに収めなさい。を取る者はみなで滅びます。
旧約聖書では、「神が戦争をさせとるやないか」という方もいらっしゃると思いますが、このことは別の機会にお話ししたいと思います。
以前もお話ししましたが、イエスが活動をしていた紀元1世紀ころのパレスチナのユダヤ人たちは、戦争の天才ダビデ王のような救世主・メシアが現れて、ローマ帝国を打ち倒すことを夢見ていました。あの12弟子たちも、イエスにそんな期待をかけていたような節があります。しかし、イエスは軍事的、暴力的な期待に反し、どこまでも平和な道を突き進みます。
天満レインボーチャーチは、LGBTQ、女性、傷ついた人々のための教会ですが、私たちはセクハラ、パワハラ、モラハラ、様々な攻撃、暴力に晒されています。その中で、イエスの平和の道は意味があるのでしょうか。あらゆる意味で、反撃することは許されないのでしょうか。反撃は暴力でしょうか。イエスの平和の道は、どこまでも過激というほどに非暴力の道です。
Mark 10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
イエスは、誰とも仲良くしましょうというような平和主義ではなく、支配と隷属という構造さえも変えていくことを示しました。神の王国の民となるということは、人に仕えるということです。もう一つ、有名なみ言葉を紹介しましょう。
Matt. 5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
Matt. 5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
Matt. 5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
Matt. 5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
Matt. 5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。
Matt. 5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
この中から、41節を取り上げたいと思います。「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。」紀元1世紀には、ローマの兵士は、支配した国の人々を強制的に働かせることができました。その一例が、41節です。他国人に荷物を運ばせることができるのですが、これが1ミリオンまでという制限がありました。では、何故2ミリオンなのでしょうか。荷物を運ぶ人の視点になって考えてみましょう。
あなたは、無理やり荷物を1ミリオン運ばされます。1ミリオン来た時、兵士はしぶしぶ、荷物を降ろさせようとします。しかし、あなたは兵士の目をしっかり見据えるのです。そして、言います。「それじゃ、もう1ミリオン運びましょう」あなたの目には怒りがあります。あなたの尊厳など無視して、あなたを好きに利用する、兵士の目を見据えます。抑圧されたあなたが主導権を取り返す瞬間です。あなたの尊厳を主張する瞬間です。「あなたはローマ皇帝に従うのでしょう。しかし、私は主イエス・キリストに従います」と宣言する瞬間です。この宣言こそ、キリスト教会がするべきことです。キリスト教会が抑圧されている人々をサポートする方法です。
今の暴力の世界では、このような抵抗でさえ、相手を挑発する行為として捉えられ、さらなる抑圧を経験することになるのです。しかし、この抵抗こそ、非暴力のイエスの道です。キング牧師はこう言っています。「非暴力は、抑圧されている人に、新たな自尊心を与え、自分でも知らなかった強さと勇気の資源を呼び起こすのです。」
アパルトヘイト下の南アフリカで起こった出来事です。
 

黒人の青年が通りを歩いていました。
向こう側から白人男性が歩いてきました。
白人男性が黒人男性に言いました。
「俺はゴリラには道を譲らないんだ」
黒人男性が白人男性に言い返しました。
「俺は譲るよ」
 
黒人男性は、自分がどれほど道徳的に優れているかを主張することはありません。しかし、ユーモアで、南アフリカにある白人と黒人のパワーバランスを壊してしまいました。
ウォルター・ウインクという神学者が、暴力と抑圧に直面した時に、私たちができる「イエスの道・非暴力の道」を示しています。
 
 

LGBTQということで、女性ということで、貧しいということで、抑圧されるなら、イエスの平和の道で抵抗すべきです。クリスチャンは、教会は、抑圧されている人々に、助けの手を差し伸べているでしょうか。「報復するよりも苦しむことを厭わないこと」とありますが、この苦しみを教会は引き受けているでしょうか。時折、クリスチャンは、自嘲的に「クリスチャンはマイノリティーだったし、今の日本のクリスチャンもそうだ」と言います。マイノリティーになるとは、「抑圧されている人たちとともに、報復するよりも苦しむことを厭わないこと」ということです。
今、統一教会の問題で、宗教自体にも厳しい目が注がれています。万が一、キリスト教会が抑圧の対象になった時に、誰が私たちのために戦ってくれるでしょうか。
この平和の道の原則は、国際関係にも適用できるでしょう。日本が戦闘状態に巻き込まれた時にも適用できます。それを推し進めたのが、マハトマ・ガンジーです。あえて言うなら、私は仮に日本が別の国に占領されたとしても、この方法で抵抗したいと思います。
 
 
イエスの平和の道、非暴力の道は、クリスチャンのライフスタイルであり、クリスチャンの霊性、スピリチュアリティと言えます。教会が、クリスチャンとともに、私たちの心の中に作り上げていくものは、非暴力の道であると思います。そして、その非暴力の生き方が、教会に打ち立てられるのでなければ、イエスの教えは絵に描いた餅にすぎません。

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