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仕事に選ばれるという生き方

 この仕事を選んだわけ、について考えている。この仕事がどの仕事かというところからはっきりしないし、「わけ」などないという結論に至った。

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 生涯一つの仕事を極めて行く。そういう生き方に憧れる。でもわたしはそうではなく、その時々で実にいろいろな仕事をしながら暮らしてきた。そんなわたしは、仕事を選んだことがない。だから「この仕事を選んだわけ」というのがない。仕事を選ぶのではなく、仕事に選ばれるという生き方かもしれない。

 仕事というのはいったいなんだろう。

 わたしは小説を書いているのだが、拙作『雪町フォトグラフ』の中に以下のような一節がある。主人公の親友が語る言葉だ。

この国で生きてくには社会ってものと関係を持つ必要があって、上手に社会と関係を持つための手段が仕事なんだって。

雪町フォトグラフ

 これがたぶん、わたしの仕事観だ。社会とつながるための手段。仕事をすることで社会に貢献し、居場所を作る。そう考えると、仕事というのは社会が自分に対して要求するニーズだと言えるような気がする。そしてわたしはこれまで四半世紀ほど、社会の要求に応えるという形で「仕事」をしてきた。

仕事に選ばれるという生き方

 思えばわたしは仕事を選んだことがない。
 当初、選ぼうとしていた。憧れの職業があり、それに向かって頑張っていた。が、憧れていた姿になることはできなかった。でもその過程で身に着けたいろいろな技能は、いろいろな場面で必要とされた。必要とされることで、それが仕事になったのだ。たいていの場合、趣味でやっていたことに対して、それに金を払うから手伝ってくれ、という人が現れ、それが仕事になっていった。言わば仕事の側がわたしを選んだのだ。

 具体的に言おう。

 わたしは最初、ミュージシャンを目指していた。テレビに出ているような、大きな会場でライブをやったりするような、そういう演奏家に憧れていた。もしこれが仕事になっていたら、わたしは仕事を「選んだ」ことになるだろう。こういう仕事をしたい、と思って目指していたからだ。

 でも、この夢は叶わなかった。わたしはそういう演奏家にはなれなかった。が、その過程で身に着けたいろいろな技能は、さまざまな場面で必要とされた。

 まず、音を聞いてそれを打ち込みで再現できるというスキルによって、カラオケの伴奏データを作るという仕事を頼まれた。続いて、そういうことができるならそれを楽譜にも書けますか、という話が来て、音楽出版の世界で楽譜を書く仕事を頼まれた。
 その仕事をきっかけに編集部に出入りしていたら、雑誌を作るんだけど手伝わないかと言われ、それを手伝うことになった。すると書いた文章が評価され、文章を書いてほしいという話が舞い込んできた。

 こうして演奏家になりそこなったわたしは音楽出版の世界でいくつもの仕事を請け負うことになった。

 音楽が好きで音楽の道を志し、なんとなく音楽に関係した仕事をし始めたので、趣味は何か音楽とは違うことをやろう、と思った。そしてわたしはVJを始めた。VJというのは1990年代の中ごろから流行り始めた、音楽でいうDJみたいなことを映像でやるようなもののことだ。ヴィジュアルジョッキー、略してVJ。わたしはこれを、1999年ぐらいから始めた。

 VJを始めたら映像を作ってほしいという話が来るようになった。映像編集機のメーカーから製品を触ってみてくれと頼まれ、ある程度使えるようになったら、それを人に教えるセミナーをやってくれないかと言われた。

 VJの素材づくりを通じて3DCGを始めたら、今度は3DCGが仕事になった。それが仕事になると今度はそれを学生に教えてほしい、という話になり、先生をやることになった。

 音楽が仕事になって趣味で映像を始めたら、今度は映像が仕事になってしまった。そこでわたしは趣味でプログラミングを始めた。自宅にサーバを立てたり、自分で使うプログラムを書いたりして楽しんでいた。

 すると、映像制作やCGができてプログラムも書けるなら映像制作で使うプログラムを書いてくれないかという話が来た。サーバもわかるならシステムを手伝ってくれないかという話も来た。

 このようにわたしは実に幅広くいろいろな仕事をしてきたのだけれど、自分で仕事を選んだことはほとんどない。なにかをやっているとそれを「仕事として頼みたい」という人が現れるのだ。

 仕事というのはきっとそういうものだろう。自分の持っている技能が誰かの役にたつ。それを欲している誰かがいる。そういう人が何かを手伝ってくれないかと相談してきて、それに対して報酬をくれる。わたしが技能を提供し、相手は対価を支払う。それによってこれが「仕事」として成立するというわけだ。

 社会に出て既に四半世紀。実にいろいろな仕事をしてきた。わたしの技能を必要とする誰かがいて、わたしはその必要に応え、相手はそれに対価を支払う。そのやり取りが「仕事」という現象を生み出している。仕事を生み出すのは「必要」だ。誰かの「必要」に応えられる場合、それは仕事になり得る。

これから社会へ出る人たちへ

 進路のことを考えるとき、きっと「仕事」というものが念頭にあるだろう。どんな仕事をしたいのか、それによって進路を計画する。わたしも最初はそのようにして行動していた。でもその結果は上記のような先の読めない人生だった。今なお、自分の将来がどうなるのかはわからない。5年後、自分がどういう仕事をしているのか、今の時点ではまったくわからない。でもおそらく、わたしの技能の中のどれかが誰かに必要とされて、きっとそれが仕事になっているのだろう。これまで四半世紀、どの仕事もみんなそのようにして得たものだったから、きっとこれからもそうだ。

 仕事というのは誰かの必要、すなわちニーズによって生まれる。誰かが必要としているなにかは仕事たり得る。なにかたいそうな理由によって仕事を選ぶという生き方はもちろんあるのだが、誰もがそういう生き方を選ぶ必要はない。実際のところ、わたしはこれまで一度も、たいそうな理由で仕事を選んだことはないけれど、その時々で楽しく充実した仕事をしてきた気がする。考えてみれば当たり前で、わたしは常に趣味として好きなことをやっているうちに、その力を貸してくれと言われてそれが仕事になってきたのだ。それを仕事にしようと思ってやってきたのではなく、やっているうちに仕事になったのだ。

 だからわたしには、自分の仕事を選んだ理由というのがない。それに仕事も一つや二つではなく、これからもどうなるかわからない。「この仕事」と言われてもいったいどの仕事のことやらはっきりしないのである。

 仕事が生涯に一つである必要はないし、何らかの理由を持って仕事を選ぶ必要もない。むしろ仕事を選ぶのではなく仕事に選ばれるという生き方だってある。誰かが必要としているなにか。それを提供することができるなら、それはあなたの仕事たり得るのである。

わたしのこれから

 今、わたしの仕事はプログラマの端くれみたいなものだ。趣味ではいろいろなコンテンツを作っている。小説を書いているのもその一つだ。

 この先、どんな仕事をすることになるのかはわからない。一つ言えるのは、誰かがわたしの技能について、「その力を貸してくれ」と言って来たらそれが仕事になる可能性はある、ということだ。わたしはきっと、面白そうならやってみるだろう。頼めないかと言われたら、いっちょやってみましょ、と言って腕まくりするだろう。

 いかにして仕事を選ぶか、といったことをひたすら考えている人は一度立ち止まって、仕事の側に選ばれるという選択もあることを思い出してみるのも、まったく違った明日を得るきっかけになるかもしれない。

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