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スメル・アライヴ

 世界は臭い。

 敬愛するピアニスト、佐山雅弘さん(故人)が蓄膿症の手術をされた直後のライブでおっしゃっていた。「世界ってのはこんなに臭かったのか」と。

「くさい」にも「かぐわしい」にも生、命を感じるのはにおいのデータ化が遅れているせいだろうか。世界がどんどん脱臭されているからだろうか。

 音や映像はどんどんリアリティを増している。実際には存在しないものを実在にしか見えない状態で映像にすることはできるし、その映像にはきわめてもっともらしい音が付いている。ただそこにはにおいがない。

 4DX 等で映画を見ると、風やしぶきなど、「触覚」に訴える刺激も追加されている。一応4DXにはにおいもあるが、「良いにおい」がするシーンで共通の「香り」が漂うだけで、そのシーンに合わせたにおいがしたりはしない。映画にリアルなにおいが付いたとしたら、それは観客に歓迎されるだろうか。リアルな映像と音はおおむね歓迎されたような気がするが、においとなると不快なものが多く、あまり歓迎されないような気がする。

 でもおそらく、においがあると世界はよりリアルに感じられるだろう。今のところ再現されていないからこそ、においこそが現実を感じさせるのかもしれない。最近映画を見ていて考えるのは、そこにはどんなにおいが漂っているのだろうか、ということだ。キングコングは臭いだろうか。スーパーマンに体臭はあるのだろうか。トランスフォーマーは機械油やコイルの焼けるにおいがするだろうか。キャプテン・アメリカのヘルメットは剣道の面みたいなにおいになっていないだろうか。

 わたしが映画を見てにおいのことを考えた最初は、「マトリックス」を見たときだ。これはけっこうはっきりと覚えている。1980年代からシュワルツェネッガーの映画を好んでいた私は、コナン・ザ・グレートやコマンドーを見て「臭そうだ」と思ったものだ。ところが「マトリックス」に登場するネオ(キアヌ・リーヴス)にはにおいがなかった。臭そうじゃないのだ。

 劇中でモーフィアスが囚われた際、エージェント・スミスがにおいについて言及するシーンがある。しかしそのシーンでさえ、汗だくになっているモーフィアスからはにおいが感じられなかった。「臭そう」じゃないのである。

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 このシーンはマトリックス、つまり仮想空間の中でのエピソードであるため、スミスがにおいに言及するのはとても興味深いし、そのビジュアルがあまり「臭そう」じゃないことも興味深い。

 小説を書きながら、わたしはその世界ににおいを漂わせたいと思うことがよくある。

ゴミ置き場に積み上げられた生ごみと雨どいにたまった粘土状の泥とそこいらの花壇の雑多な花と近所の猫の排泄物と若作りする中年女のやりすぎた化粧と使用済みのコンドームに閉じ込められた行き場のない精液とポンコツなディーゼルが吐き出す断末魔の排気ガスと隣人の炊く仏壇じみたお香と死にかけた自分の体臭の入り混じったにおいがした。
(中略)
窓から差し込んだ日の光が部屋の中央に綿貫の影を落とす。古い畳が抱え込んだ死んだ細胞のにおいとたしかに生きて活動しているカビのにおい、そこに死に近づきつつありながらかろうじて生きている綿貫の加齢臭が入り混じり、生から死へのグラデーションを描くすえたにおいとなってたちこめている。少々窓を開けたところで消えることのない、べったりと部屋にこびりついたにおいだ。この部屋も世界の一部だと思える程度にくさい。綿貫はそのことに満足した。少なくとも自分は監禁されていないし、たしかに死につつあるけれどまだ死んではいないと思えた。

「狂楽の回旋曲」 涼雨零音

 ここではどちらかというと不快なにおいを羅列し、そこに安堵する人物を描いた。不快なにおいが漂うことによって現実を体感し、それに安堵する。ここが作られたいかさまの世界ではなく、どうしようもなくコントロールのきかない現実だという安心感。

一歩足を踏み入れたとたんにこの家の匂いがレイトを包みこんだ。息が止まりそうになった。この家が積んできた時間がレイトを塗りつぶそうとしている。きっと完全に塗りつぶされたとき、この匂いが感じられなくなるのだ。レイトのすぐあとからカノンが入ってきて扉を閉めた。カノンはレイトの横をすり抜けて前へ出る。カノンの肩がレイトに触れ、髪がレイトの前で揺れる。家に立ち込めていた匂いとは違うカノンの匂いがレイトを包み込んだ。頭蓋骨の中がカノンの匂いで満たされたような気がした。

「シオンズゲイト」涼雨零音

 これはボーイ・ミーツ・ガールで、ボーイが他人の家に感じるにおいへの違和と、ガール本人のにおいに含まれる官能の間で揺れる様を描いた。この作品は仮想現実世界とその外の世界を行き来し、どっちがどっちだかわからなくなるという世界観を描いていて、ここでもにおいを現実感を漂わせる要素として使っている。(その現実感さえも演出されているという可能性はいつまでも残るわけだが)

 思えば生き物は臭い。代謝によって死んでいく細胞がにおいを放ったり、微生物の活動が嗅覚を刺激する物質を発生させたりする。生きているということはそれだけで臭く、死ぬとなお臭い。死んだ命は強いにおいを放ちながら微生物によって分解され、やがてにおいを失って大地へと還る。においは命と密接な関係にあり、人間は生命活動をどんどん上部レイヤーへシフトすることでそこから離れつつあるような気がする。

 自分のにおいの染みついた寝具にうずもれて安らぎを覚えるたび、まだわたしは犬と同じ領域に踏みとどまっていると感じる。犬と同じレイヤにいる限り、わたしはまだ生きている。

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